余計なお世話

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「空気を読む」という時の空気は
自分が勝手に想像するものである
「世間一般の当たり前」もそうだ
それなのに行動に影響を及ぼす

大なり小なり社会という場所は
仮想が物を言うゲームなんだと思う
社会自体が仮想で成り立っていて
それでいて実際に橋ができたりするのは
面白いといえば面白いだろう

自分の世界を形作るのは
自分が知覚した限定的な物事
ゲームに参加するものは
自分の世界を誰かにわかる形に表現する
表現しない人でも肩書が語っている事にされる
どっちにしろ参加させられる

もし困った事がなければ
やる必要はないゲームだ
でも生まれる前から
「参加するのが当たり前」と
決められているのである
人生では必ず困った事が起きるので
参加しなければ生きていけないみたいだ

表現された人物や物語が
誰かの共感を得られたり
好ましく思われたりすると
課題解決や目的達成を
誰かが応援協力してくれたりする
そんなことを互いにし合う
(命の危険がない状態では)

会社帰りに雨が降っていた
傘をさして自転車に跨ると
見知らぬおばちゃんが来て
「犯罪者扱いですよ」と言い捨て
足早に去って行った事がある

cakes.mu
>大きい主語で自分を語れるのがマジョリティ
を読んで、おばちゃんの事を思い出し合点がいった

傘のおばちゃんに嫌な気持ちになったのは
自分がマジョリティであると安心する人の
自分がマジョリティであるという思い込みからくる
当事者性の欠如した発言と態度に原因があった
もし「私は危ないと思うよ」と言われて
その場におばちゃんがいてくれたら
嫌な気持ちにはならなかっただろう

上記の対談では、卑近な例で引用するには申し訳ない位
重要なことを言っていると思う
ただ生きる事を制限されたり、抑圧される事に対する怒りの行動は
他人事ではなく誰でも考えておかねばならないのだと思うので
下記のリンクも貼っておく

imidas.jp