おしゃれ

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twitterで見かけたファッションのイラストから横山裕一のマンガを思い出し、寝る前に読んだ。新たに買った作品も相変わらずかっこいい。表現されているのは極めてシンプルな現象でありながら、描き方は細部に至るまで具体的でフィジカルな現実の物理法則に則っている。なぜこれを描いたのか、描きたかったから以外に理由はないとよくわかる。その描きたさの熱量は多用される擬音の直線的な力強さに限らず、徹底して管理された描線、さらには解説の簡潔さにも表れている。描き方にも実験性があり読んでいて楽しい。ただアップの画が多いので、慣れないと作品世界の状況をすぐ読み取れず、目と頭が疲れる。そしてこれでいいのだ、と安心して眠った。

横山裕一のマンガに出てくる人間たちの外見は一見人間とは見えないほど個性的だ。シンプルな現象と物理法則の下で、皆元気いっぱい思い思いに動き回っている。遠目には群れだが、それぞれが確固たる目的意識を持ち、衝動を優先して楽しそうだ。人間の見た目について考えてみると、そもそも裸が一番個性的である。造形大きさ色重さ全て異なり、遺伝子的にも皆異なるエラーを抱えている。さらにそれぞれが常に老化しており、食事排泄等の状況や病気、体調や気分で変化もしている。低気圧で頭が痛い時の体も薬でハイになった時の体も個性的だ。マンガでそういう肉体の描き分けをするのは現実的ではなく、表現する内容によっては不要である。ハイファッション的な外見のデザインが素敵だ。

横山裕一の描く人間たちは皆健康で、疑問を呈したり仮定して行動したりするが、私はこんな人間だなどと主張はしない。自我の有り様などどうでもいいように見える。とても恰好いい。「これが私だ」と思って出されるものは、大概そのままの私ではないので、こう見られたいというのは恰好悪い。何者になるとか何事をするとかはどうでもよくて、正直でいられたら良い。それは努力とかではなく、えいやっと正直でないことを捨てる覚悟である。裸の自分を見せられる人のことを、恰好いいという意味でおしゃれと呼んでいる。

しぜん

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昔から社会的なことに興味が持てない。逆に気になるのはいつか死ぬということで、変化する自分や新しい経験、他人の純粋に個人的な行動などは、大いに興味がある。一方で役割とか見た目だけでも面倒なのに「こうあるべき」なんて話が多過ぎて辛い。一応、生存する可能性を上げる恩恵も受けているのだろうから、社会にいてもよいものとして「意味」を求められる以上、それらしいものを用意、時にはデザインして体裁を整える。時には説明もする。めんどくさい。やっぱり人に殺されるより、熊に食べられた方がいいし。

存在意義はある程度自分で作らなければならない。周囲から使えるものを探したり、自分のリアクションに理由付けしたりして、他人に見せられる一面を用意しておく。社会はカオスを排除しようとする不自然なものなので、それに応じた不自然な一面、つるっとしたお面が社会的な自己である。それも自分の一部だし、文句はないだろうという建前だ。

それを考えるのが面倒過ぎて、幽霊になりたいと思っていたこともある。ずっと誰にも認められないまま周囲を眺めていたい。社会的に幽霊になるには、欲望を滅却して周囲に擬態すればよい。欲望の滅却なんて難しいと思われるかもしれないが、ただの習慣である。なぜやりたいのか自問していけば、大概の欲望に理由はない。刺激そのものを無効化する考え方と行動をしていけば、環境もそうなっていく。だが飽きる。毛穴からも臭いがしてくるし、少なくとも身体の処理は考えなければならない。

脱線したが、だから公人や有名人はさぞや疲れるだろうと思う。覚醒剤をやりたくなる気持ちもわかる気はする。特に天皇は一番大変だ。象徴として存在する(しかも実体のないものの象徴)なんて難易度が高過ぎる。そんな禅問答を強いるようなルールの下に生まれてしまった天皇がせめて独りでいる時には、存分に社会的に無意味なことをやって頂きたい。

したいからするのが自然である。何故したいのか欲望に理由はないと書いたが、自然は多分そういう風にできているし、全ての行動は自分にとっては意味がある。社会的なことに興味が持てないというのは、自分が社会に向いてないからだ。社会に不適合な人は、社会に合わせて自然をうまく手放せないだけだと想像もしている。実際のところ他人に親しみを感じるのは、自然な一面を見ている時だけである。建前に安心を覚えるようには、なりたくない。


即死 THE ↑ HIGH-LOWS ↓

昔インド料理屋のバイト前に、この曲のサビを口ずさんでいるのを、通りかかったインド人に心配されたのが後の妻である。

場所

どうやら日本の人口は減り続けるようで、宅地造成で自然を壊す必要がなくなるのはとてもよいが、既にある住宅が住めなくなるのは困る。住宅街を散歩していても、今建ってる建物のほとんどが100年保たないんだなあと思う。人も保たない。動ける内に重たいものや資源を整えておかないと、色々とそのまま埋没してしまう。それはそれで仕方ないかーとも思うが。妻ともよく、人は滅べばいいのにねと言う。子供は作りたいし、家族や友人には幸せになってほしいのだけど、もう人は滅べばいいのにと思う社会に、人として生きているよなあ。

今ここに何があるのかが気になる。昔からずっと気になっていたと思う。本当に幼い頃は、たまに新しいおもちゃ(洗った後の魚型をした刺身醤油入れなど)をもらうと色んな角度から眺めて飽きなかった。おもちゃの特徴はもちろん気になるが、細部を見ているとそれは場所であるからだ。顕微鏡で細菌を見ている時のミクロの世界の広がりを感じる感覚とは違い、スケール感というより「場所」という概念に萌えていたのだと思う。キャプションに「場所…!」とある目と口を見開いた赤子のマンガを想像してもらいたい。いや、別にしなくてもよい。おもちゃ自体が小さな場所であることや、これまで無かったものが今ここにあるということがとても面白かった。自分自身もおもちゃにできることや、おもちゃにしてはいけないものごとなどを知る前、この世界は全部場所で出来ていると思って興奮していたのだろう。人も場所として考えることができるから「ここ」には「自分」も含まれていて「どこ」には「誰」も含まれていると思うようになったのだと思う。形や色や固さや匂いなど、あらゆるものが違っていることは当然で、あまり大事ではない。場所としては皆、大体同じ価値があると思うし、何を考え何をしたかというのは、また別の価値の話である。

いつか自由にドローン撮影をしてみたいと思う。「今どこに何があるのか」が撮影できて楽しそうだからである。CGのような計算して作ったものには「今」がなく、人工衛星から見られるのは上から見た表面だけである。でもきっと昔、友達にやらせてもらったゲームの「三国無双」で何千という兵隊をまとめて蹴散らし「ひゃっほー!」と言ったように(本当に言った)おかしなテンションになってしまいそうだから、やっぱり自分に自由にやらせてはいけないと思う。関羽が好きだった。

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寅さんと源ちゃんが怒られた廊下

困りはしない

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ねぎぼうずに青虫
うちには「最後の晩餐」のポスターが貼ってある。実寸ではないが結構デカい。部屋に入るとまず目に入るデカさだ。これを見た義父が、絵に描かれた人たちの名前が入った図をプリントアウトして持ってきてくれたので、畳んで画と壁の間にちょっとはみ出すように挟んである。来客はこれはどういうことだろうと思うのかもしれないが、口にする事はあまりない。
何故この絵の複製を貼っているのかというと、以前大判ポスターの仕事で溜まっていたポイントの期限が切れそうだったので、妻に好きな絵を訊いてネットにあった画像を注文してみたからだ(壁に貼るとは思わなかったと言われた)。同じ理由で、うちのかわいい人たちをスマホで撮った画像もプリントアウトして「最後の晩餐」の下に貼ってある。こちらもデカい。
先日結婚してないことが気になっている口ぶりの人がうちに来た時、関係の中身は大事だけど結婚すること自体には特に意味はないし、このポスターと同じようなものではと言ってみた。理由はあるが意図はない。かわいい人たちを並べて貼ってあることには、少し意図はあるかもしれないが。来客は「えー」と笑ってはいたが、何も言わずに帰っていった。まあ、完全に余計なお世話というか、余計な話だ。オッサンになったものだと思う。ともあれ意味のないものが目につくところにあると、何かと気楽になるとは思っている。

子供の頃から死ぬのがこわくて、何をやりたいのか聞かれると困った。ずっと涎をためていたりぐるぐる回り続けたり、自転車で恥骨を強打して息ができなくなってみたり、社会的に無意味なことをするのが楽しいくらいで、死ななければ何でもよいからである。強いて言えば「まだやったことないこと」で、その時々で適当に答えていた。一人で死ぬこわさを味わって遊んだりもしたが、誰かと会う場所ではどこに行っても「何をやりたいのかわからない」「何も悩みがない」変なやつだと思われていたような気がする。大人になってからもそうだった。そんな自分でも、家族が出来てからはまともなやりたいことも出来たが、元々の性質は多分死ぬまで変わらないので「あいつは何がしたかったのかなあ」「変なやつだったな」と思われたまま死にたいと思う。話が脱線したまま死にたいと思う。までいってしまったが、何を言いたいのかといえば、意図を「ケッ小賢しい」と思ってしまうところがあるのは、自分のやりたいことを自信を持って他人に言う経験が乏しいことへの、反動でもあるのではないかということである。自分でも本当にしょうもないな自分としょぼんと思っている。ブログを書いていて思うのは、どうでもいいことを言語化するのが好きなんだなあということだ。どうでもいいというのは、劇的でないこと、たまたまそうなったこと、特に意味のないことなのに、気になってしまったことである。自分のことを語ることでしか表現を始められないので、結果的にそうなっているのかもしれない。そういう人間だから、意味のない造形に気楽になったり、変哲もない景色に自分の納得のいく説明をつけたくなったり、するのではないかと思った。思ったと言われても。

私事

「これはどういう事なんだ」という違和感の表明が好きだ。新しいものに出会った時の子供や動物の表情や動作もそうだし、大人が首を捻りながらとりあえず写真を撮ったり文章にしてみたりするのもそうだ。ひっかかりを検証したり感じる状況を再現してみたりしながら、ひっかかりの正体を少しでも腑に落とそうとする過程は面白い。他人が見てもまだ明確な答えはないので「違和感があるんだな」くらいしか伝わらないかもしれないが、わからないものがわかるようになると嬉しいから形にしようとする熱量が違うし、何より途中である以上生きている。

逆に「どうせこんなもんだ」と高を括って出されるものが嫌だ。特にテレビやラジオなど昔からの広告媒体に多い。沢山売れたことがある商品の何番煎じかわからないCM、建前を守る為に私を殺しまくってるのに、これが私ですけど?みたいな顔をした人たち。高を括る根拠は数字の実績や、業界内の建前、個人的な経験など「過去はそうだった」でしかないので、全く面白くない。それどころか下手をすると「生きててもつまらない」という気持ちや態度を補強してしまいかねないので、存在しない方がよいとさえ思う。年々そういうものに触れると具合が悪くなるようになった。これは例えば広告媒体においても単に商品を購入させるための洗脳だけではなく、深刻な差別・偏見や、権力による暴力を容認、助長することにも繋がってくると思うからだ。だからやっぱり「どうせこんなもんだ」はなくなってほしいし、自分がそう思ってることに気付いてない人は少しでも減ってほしい。

話を戻すと、自分は私的な違和感にじっとしていられないような、もの狂おしさを感じている状態が好きなんだろうと思う。どれだけしょうもないことでも、自分のわからなさにこだわりたいし、他人のこだわる姿を観たい。答が出ないとすっきりしないので、さっさと答を出したくなるかもしれない。答のような顔をしたものは世間に無数にある。あまり気持ち悪いようなら一旦保留するのもよいだろう。でも手放してはいけないと思う。自分が納得できる形にしようとし続けるだけでも、間違いなく表現が生きることを知れば、抱えている違和感自体が生きる力の源になる。もし似たような違和感を自分よりうまく形にしてる人がいても、わからなさへの向き合い方、違和感の方向性や種類をまとめたものを、その人らしさとも言う。その人が生きている限りその問いは新しい以上、自分の違和感を手放す必要はない。違和感からとりあえずの納得までの道筋を、他人に理解できる形にすると物語になる。これは人生の成果だと思う。だがある違和感が一応の物語になり他人と共有できたとしても終わりではない。勘違いすると高をくくるにすら繋がりかねないので、やはり発展させて問い続けるのだ。

自分の名前は生といって、付けられた理由はとても難産だったからだが「生ってなんだろう」と考えるのでいい名前だと思う。生きるとは限られた時間の中で、変わることだったり続けることだったりするが、もっと具体的にどういうことなのか、人はどういうものなのか、違和感を持ち続けることで味わっていきたいと思う。

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なにいってんのおとしゃん

多分生き物は気力で動いている。それは機械にとっての電気にあたり、食べたり寝たりして養う。気力は、希望がないと湧かない。動く目的が自発か受動か、当人がどう意識しているかによって、発揮できる気力の量や時間は変わってくる。多分意識しなくても生きていけるが、意識しないと後で後悔しそうではある。

ディスカウントスーパー/コンビニが都内にどんどん出始めた頃、はじめておにぎりを食べて具合が悪くなった。腐ってもいないし食べられるのだが、プラスティックみたいなものを食べた感じがする。定期的に泥酔を繰り返し30歳になった頃で、酒や煙草といった嗜好品としての毒性には慣れていた体も、栄養のつもりで摂取した物のそうではない感に面食らった。単に老化の表れとも言えるし、あの震災後の空気の影響もあるだろう。終わった感にやられて、それから一年以上性欲が無かった。

話が脱線したが、自分が何を食べているのかわからないという話である。食品添加物残留農薬などに割と意識的な親共々安価で手軽なハンバーガーは好んで食べていたし、産地偽装も割と身を持って知っていたがあまり気にならなかった。映像などで屠殺の現状を知った上で、食品に加工された畜肉も食べている。おにぎりの包装に明記された保存料などを見ても、口にした成分の何が自分の気力を削いだのか、わからなかった。

考えてみると、タンパク質を補給している感覚、ビタミンAを摂取している感覚なんていうのは正確に認識できない。「生命力を分けてもらった」「旬の果物である」「うまい」とかそんな意識しかない。事実を正確に認識できないというのは、食べ物に限った話ではない。思い込みなどの話以前に、視覚における盲点を隠す脳の補正など、感覚器の機構からそれは事実としてある。不完全だが、全然それで生きていける生き物ということだ。そういうわからなさを逆手にとったというのか、19世紀末アメリカでシアーズ・カタログが生まれた。人はイメージで物を買う。イメージを起こさせるのが物語であり、それは事実と異なっていようが構わない。宣伝広告が花開き、大量消費社会になった。それをどうこう言うつもりはない。

嘘はよくないと言われるが、人の気力にとって必要なものだと思う。何もなさず何もわからないまま長い目でみれば間もなく死にますという事実だけでは、中々気力が湧かない。嘘の中には事実を模したものと、事実そのものみたいな顔をしたものがある。事実を模していると公言したものは概ねよいようだ。合成肉でも美味しいと感じたら満足するし、家畜を殺さないで済むならその方がよい。病気の人は偽薬とわかっていても、服用することで症状が緩和するのでよい。心の満足や安定は体に作用するので、うまくすると健康にもよい。

一方でこれが事実ですという顔をした嘘はよくない。わかりやすいのが政治家の嘘だ。もし誰かにとって都合のよい嘘を事実だと思い込んでしまったら、逆に都合のわるい誰かを非常識だといって傷付けることに無自覚になってしまう。困っている人、弱っている人が一人で苦しんだり絶望していても、彼らが一人でいることに気付けなくなる。常識という幻想が壁になって隠してしまうからだ。自分が困っていない時、弱っていない時は、一人で困っている人たちを見えなくする。困って弱っている上に孤立したら死んでしまうというのに。

不完全で欠如が有るから生じるものとしては、嘘と夢はほとんど同じものだ。環境から求められた時、または偶然自分の欠如に気付いた時に夢が生まれる。夢に向かう為に事実と向き合う建設的な問いが生じたり、心の弱さから嘘を求めてしまったりする。多分誰でも、生きている間は願望を覚える。自分の願望を叶えようと行動するが、社会には叶えられない願望にも金を出せば応じるという嘘がたくさんあって、いたずらに時間と欲望を消費させてくる。最初はそんなバカなと思ったとしても、もし知り合いが嘘を信じていたら、そうかもとちょっと考えてしまうし、10ある要素の内1つでも事実があれば、人はそれを嘘だと言えなくなってしまう。

嘘に蓋をされると、自分の欲望も見えなくなる。欠如を意識しない限り、希望も絶望も生まれない。自分も他人も欠如してると思って生きていきたいし、また嘘を現実と思ってしまうと他人を傷付けてしまうので、嘘が嘘であることを自覚して生きていきたいと思う。えらい。

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これは別に嘘とかではない

仕事のはなし

ファミコンのバグが好きだった。ファミコンソフトのカセットは、しばらく使ってると内側の基盤が外れてカタカタ言い出す。そういうカセットを本体に半端に挿した状態でスタートさせたりすると、そのまま起動することがあった。初期の単純なアクションなどの自分でステージを作れるゲームでは、何もない空白の中でプレイヤーを動かせたり、何もないように見えて敵にぶつかって死んだりした。普通にプレイしていたドラクエでも、絶対に倒せない敵が出てきたこともある。仲間を呼ぶタイプのモンスターを呼んだ直後に倒したら、普通は戦闘終了なのだが続いてしまい「はじゃのつるぎ」という名前のモンスターが来た。メラゾーマイオナズンなど攻撃魔法の最上位のものを使ってきて、そのくせダメージは10とかで興奮した。

ファミコンが自分の人格形成に与えた影響は大きい。横スクロールゲームの画面の外側は無限を感じさせた(大げさ)。オンラインゲームのない頃だったので、ゲーム自体はあくまで一人ですることであった。だが誰かの頭の中に入っていくことでもあり、同じゲームをする友達と共有できたりもした。今だってパソコンで仕事をしている。たくさんソフトがあり、ネットには攻略法もある。使う目的は変わってはいるが、遊んでいるようなものである。子供の頃と違うのは、計算結果で現実を動かそうとしていることだ。現実のゲームを優位に進めるために、コンピュータを利用している。そしてバグには全て理由があり、つきつめると解消できるものだった。解消することは大して面白くはないが、すっきりはする。

コンピュータは人の脳を模したものだが、計算は間違わない。日常的にコンピュータを触っていると、間違えることが人の本質だとつくづく思う。人として何が一番ストレスかといえば、予定に合わせて間違えないようにすることなので、仕事はできるだけコンピュータに任せたい。プログラミングができなくても、既にコンピュータに仕事をさせる便利なソフトがたくさんある。それらを探し出して使い方を勉強しカスタマイズすることで、大概のことはできてしまう。それが済んだら主な仕事はコンピュータを使う人とのやりとりに割かれるようになる。ここ一年くらい、ヒューマンエラーを避けストレスを減らすために、業務の自動化ばかりしていた。お金を使うことは人の欲望の表現だ。だから仕事の目的は、他人の欲望の制御または収拾である。欲望を言語化して、他人の欲望を動かす仕組を考える。それからコンピュータに代替させるようにする。

人工知能が実用化され、人間の様々な出力が置き換えられている最中だが、自然言語処理自然言語によるコミュニケーションの完成には時間がかかると思う。最終的には会話の前に相手の理解度をはかり、相手に伝わりやすい文脈を作る必要もあるだろうし、視覚や聴覚、場合によっては嗅覚や触覚も入力装置として必要になるだろう。複数の異なる入力情報を言語として出力する過程で、人工知能に意識が芽生えるかもしれないというのはちょっと面白い。人に近づくと間違い始めるのではないかと思う。

既存のものに飽きて新しいものが作られる時が一番楽しい。まだないものが作られたり、新しいことをしている時は間違いも存在しない。倫理的な間違いは常に起こり得るのだろうが。ともあれ、仕事の時間はどんどん、がんがん短くしていって、間違いまくる人同士で間違いまくることを楽しめるようになりたい。偶然を意図的に起こすセンスが問われる。古いゲームを卒業する時は自分の仕事を卒業する時なのかもしれない。願わくは「なんでそうなるのっ!→これでいいのだ」(笑)でいきたい。

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鳥谷、糸井、メッセンジャー、みんな同い年