多分生き物は気力で動いている。それは機械にとっての電気にあたり、食べたり寝たりして養う。気力は、希望がないと湧かない。動く目的が自発か受動か、当人がどう意識しているかによって、発揮できる気力の量や時間は変わってくる。多分意識しなくても生きていけるが、意識しないと後で後悔しそうではある。

ディスカウントスーパー/コンビニが都内にどんどん出始めた頃、はじめておにぎりを食べて具合が悪くなった。腐ってもいないし食べられるのだが、プラスティックみたいなものを食べた感じがする。定期的に泥酔を繰り返し30歳になった頃で、酒や煙草といった嗜好品としての毒性には慣れていた体も、栄養のつもりで摂取した物のそうではない感に面食らった。単に老化の表れとも言えるし、あの震災後の空気の影響もあるだろう。終わった感にやられて、それから一年以上性欲が無かった。

話が脱線したが、自分が何を食べているのかわからないという話である。食品添加物残留農薬などに割と意識的な親共々安価で手軽なハンバーガーは好んで食べていたし、産地偽装も割と身を持って知っていたがあまり気にならなかった。映像などで屠殺の現状を知った上で、食品に加工された畜肉も食べている。おにぎりの包装に明記された保存料などを見ても、口にした成分の何が自分の気力を削いだのか、わからなかった。

考えてみると、タンパク質を補給している感覚、ビタミンAを摂取している感覚なんていうのは正確に認識できない。「生命力を分けてもらった」「旬の果物である」「うまい」とかそんな意識しかない。事実を正確に認識できないというのは、食べ物に限った話ではない。思い込みなどの話以前に、視覚における盲点を隠す脳の補正など、感覚器の機構からそれは事実としてある。不完全だが、全然それで生きていける生き物ということだ。そういうわからなさを逆手にとったというのか、19世紀末アメリカでシアーズ・カタログが生まれた。人はイメージで物を買う。イメージを起こさせるのが物語であり、それは事実と異なっていようが構わない。宣伝広告が花開き、大量消費社会になった。それをどうこう言うつもりはない。

嘘はよくないと言われるが、人の気力にとって必要なものだと思う。何もなさず何もわからないまま長い目でみれば間もなく死にますという事実だけでは、中々気力が湧かない。嘘の中には事実を模したものと、事実そのものみたいな顔をしたものがある。事実を模していると公言したものは概ねよいようだ。合成肉でも美味しいと感じたら満足するし、家畜を殺さないで済むならその方がよい。病気の人は偽薬とわかっていても、服用することで症状が緩和するのでよい。心の満足や安定は体に作用するので、うまくすると健康にもよい。

一方でこれが事実ですという顔をした嘘はよくない。わかりやすいのが政治家の嘘だ。もし誰かにとって都合のよい嘘を事実だと思い込んでしまったら、逆に都合のわるい誰かを非常識だといって傷付けることに無自覚になってしまう。困っている人、弱っている人が一人で苦しんだり絶望していても、彼らが一人でいることに気付けなくなる。常識という幻想が壁になって隠してしまうからだ。自分が困っていない時、弱っていない時は、一人で困っている人たちを見えなくする。困って弱っている上に孤立したら死んでしまうというのに。

不完全で欠如が有るから生じるものとしては、嘘と夢はほとんど同じものだ。環境から求められた時、または偶然自分の欠如に気付いた時に夢が生まれる。夢に向かう為に事実と向き合う建設的な問いが生じたり、心の弱さから嘘を求めてしまったりする。多分誰でも、生きている間は願望を覚える。自分の願望を叶えようと行動するが、社会には叶えられない願望にも金を出せば応じるという嘘がたくさんあって、いたずらに時間と欲望を消費させてくる。最初はそんなバカなと思ったとしても、もし知り合いが嘘を信じていたら、そうかもとちょっと考えてしまうし、10ある要素の内1つでも事実があれば、人はそれを嘘だと言えなくなってしまう。

嘘に蓋をされると、自分の欲望も見えなくなる。欠如を意識しない限り、希望も絶望も生まれない。自分も他人も欠如してると思って生きていきたいし、また嘘を現実と思ってしまうと他人を傷付けてしまうので、嘘が嘘であることを自覚して生きていきたいと思う。えらい。

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これは別に嘘とかではない