仕事のはなし

ファミコンのバグが好きだった。ファミコンソフトのカセットは、しばらく使ってると内側の基盤が外れてカタカタ言い出す。そういうカセットを本体に半端に挿した状態でスタートさせたりすると、そのまま起動することがあった。初期の単純なアクションなどの自分でステージを作れるゲームでは、何もない空白の中でプレイヤーを動かせたり、何もないように見えて敵にぶつかって死んだりした。普通にプレイしていたドラクエでも、絶対に倒せない敵が出てきたこともある。仲間を呼ぶタイプのモンスターを呼んだ直後に倒したら、普通は戦闘終了なのだが続いてしまい「はじゃのつるぎ」という名前のモンスターが来た。メラゾーマイオナズンなど攻撃魔法の最上位のものを使ってきて、そのくせダメージは10とかで興奮した。

ファミコンが自分の人格形成に与えた影響は大きい。横スクロールゲームの画面の外側は無限を感じさせた(大げさ)。オンラインゲームのない頃だったので、ゲーム自体はあくまで一人ですることであった。だが誰かの頭の中に入っていくことでもあり、同じゲームをする友達と共有できたりもした。今だってパソコンで仕事をしている。たくさんソフトがあり、ネットには攻略法もある。使う目的は変わってはいるが、遊んでいるようなものである。子供の頃と違うのは、計算結果で現実を動かそうとしていることだ。現実のゲームを優位に進めるために、コンピュータを利用している。そしてバグには全て理由があり、つきつめると解消できるものだった。解消することは大して面白くはないが、すっきりはする。

コンピュータは人の脳を模したものだが、計算は間違わない。日常的にコンピュータを触っていると、間違えることが人の本質だとつくづく思う。人として何が一番ストレスかといえば、予定に合わせて間違えないようにすることなので、仕事はできるだけコンピュータに任せたい。プログラミングができなくても、既にコンピュータに仕事をさせる便利なソフトがたくさんある。それらを探し出して使い方を勉強しカスタマイズすることで、大概のことはできてしまう。それが済んだら主な仕事はコンピュータを使う人とのやりとりに割かれるようになる。ここ一年くらい、ヒューマンエラーを避けストレスを減らすために、業務の自動化ばかりしていた。お金を使うことは人の欲望の表現だ。だから仕事の目的は、他人の欲望の制御または収拾である。欲望を言語化して、他人の欲望を動かす仕組を考える。それからコンピュータに代替させるようにする。

人工知能が実用化され、人間の様々な出力が置き換えられている最中だが、自然言語処理自然言語によるコミュニケーションの完成には時間がかかると思う。最終的には会話の前に相手の理解度をはかり、相手に伝わりやすい文脈を作る必要もあるだろうし、視覚や聴覚、場合によっては嗅覚や触覚も入力装置として必要になるだろう。複数の異なる入力情報を言語として出力する過程で、人工知能に意識が芽生えるかもしれないというのはちょっと面白い。人に近づくと間違い始めるのではないかと思う。

既存のものに飽きて新しいものが作られる時が一番楽しい。まだないものが作られたり、新しいことをしている時は間違いも存在しない。倫理的な間違いは常に起こり得るのだろうが。ともあれ、仕事の時間はどんどん、がんがん短くしていって、間違いまくる人同士で間違いまくることを楽しめるようになりたい。偶然を意図的に起こすセンスが問われる。古いゲームを卒業する時は自分の仕事を卒業する時なのかもしれない。願わくは「なんでそうなるのっ!→これでいいのだ」(笑)でいきたい。

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鳥谷、糸井、メッセンジャー、みんな同い年