場所

どうやら日本の人口は減り続けるようで、宅地造成で自然を壊す必要がなくなるのはとてもよいが、既にある住宅が住めなくなるのは困る。住宅街を散歩していても、今建ってる建物のほとんどが100年保たないんだなあと思う。人も保たない。動ける内に重たいものや資源を整えておかないと、色々とそのまま埋没してしまう。それはそれで仕方ないかーとも思うが。妻ともよく、人は滅べばいいのにねと言う。子供は作りたいし、家族や友人には幸せになってほしいのだけど、もう人は滅べばいいのにと思う社会に、人として生きているよなあ。

今ここに何があるのかが気になる。昔からずっと気になっていたと思う。本当に幼い頃は、たまに新しいおもちゃ(洗った後の魚型をした刺身醤油入れなど)をもらうと色んな角度から眺めて飽きなかった。おもちゃの特徴はもちろん気になるが、細部を見ているとそれは場所であるからだ。顕微鏡で細菌を見ている時のミクロの世界の広がりを感じる感覚とは違い、スケール感というより「場所」という概念に萌えていたのだと思う。キャプションに「場所…!」とある目と口を見開いた赤子のマンガを想像してもらいたい。いや、別にしなくてもよい。おもちゃ自体が小さな場所であることや、これまで無かったものが今ここにあるということがとても面白かった。自分自身もおもちゃにできることや、おもちゃにしてはいけないものごとなどを知る前、この世界は全部場所で出来ていると思って興奮していたのだろう。人も場所として考えることができるから「ここ」には「自分」も含まれていて「どこ」には「誰」も含まれていると思うようになったのだと思う。形や色や固さや匂いなど、あらゆるものが違っていることは当然で、あまり大事ではない。場所としては皆、大体同じ価値があると思うし、何を考え何をしたかというのは、また別の価値の話である。

いつか自由にドローン撮影をしてみたいと思う。「今どこに何があるのか」が撮影できて楽しそうだからである。CGのような計算して作ったものには「今」がなく、人工衛星から見られるのは上から見た表面だけである。でもきっと昔、友達にやらせてもらったゲームの「三国無双」で何千という兵隊をまとめて蹴散らし「ひゃっほー!」と言ったように(本当に言った)おかしなテンションになってしまいそうだから、やっぱり自分に自由にやらせてはいけないと思う。関羽が好きだった。

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寅さんと源ちゃんが怒られた廊下