私事
「これはどういう事なんだ」という違和感の表明が好きだ。新しいものに出会った時の子供や動物の表情や動作もそうだし、大人が首を捻りながらとりあえず写真を撮ったり文章にしてみたりするのもそうだ。ひっかかりを検証したり感じる状況を再現してみたりしながら、ひっかかりの正体を少しでも腑に落とそうとする過程は面白い。他人が見てもまだ明確な答えはないので「違和感があるんだな」くらいしか伝わらないかもしれないが、わからないものがわかるようになると嬉しいから形にしようとする熱量が違うし、何より途中である以上生きている。
逆に「どうせこんなもんだ」と高を括って出されるものが嫌だ。特にテレビやラジオなど昔からの広告媒体に多い。沢山売れたことがある商品の何番煎じかわからないCM、建前を守る為に私を殺しまくってるのに、これが私ですけど?みたいな顔をした人たち。高を括る根拠は数字の実績や、業界内の建前、個人的な経験など「過去はそうだった」でしかないので、全く面白くない。それどころか下手をすると「生きててもつまらない」という気持ちや態度を補強してしまいかねないので、存在しない方がよいとさえ思う。年々そういうものに触れると具合が悪くなるようになった。これは例えば広告媒体においても単に商品を購入させるための洗脳だけではなく、深刻な差別・偏見や、権力による暴力を容認、助長することにも繋がってくると思うからだ。だからやっぱり「どうせこんなもんだ」はなくなってほしいし、自分がそう思ってることに気付いてない人は少しでも減ってほしい。
話を戻すと、自分は私的な違和感にじっとしていられないような、もの狂おしさを感じている状態が好きなんだろうと思う。どれだけしょうもないことでも、自分のわからなさにこだわりたいし、他人のこだわる姿を観たい。答が出ないとすっきりしないので、さっさと答を出したくなるかもしれない。答のような顔をしたものは世間に無数にある。あまり気持ち悪いようなら一旦保留するのもよいだろう。でも手放してはいけないと思う。自分が納得できる形にしようとし続けるだけでも、間違いなく表現が生きることを知れば、抱えている違和感自体が生きる力の源になる。もし似たような違和感を自分よりうまく形にしてる人がいても、わからなさへの向き合い方、違和感の方向性や種類をまとめたものを、その人らしさとも言う。その人が生きている限りその問いは新しい以上、自分の違和感を手放す必要はない。違和感からとりあえずの納得までの道筋を、他人に理解できる形にすると物語になる。これは人生の成果だと思う。だがある違和感が一応の物語になり他人と共有できたとしても終わりではない。勘違いすると高をくくるにすら繋がりかねないので、やはり発展させて問い続けるのだ。
自分の名前は生といって、付けられた理由はとても難産だったからだが「生ってなんだろう」と考えるのでいい名前だと思う。生きるとは限られた時間の中で、変わることだったり続けることだったりするが、もっと具体的にどういうことなのか、人はどういうものなのか、違和感を持ち続けることで味わっていきたいと思う。