低気圧

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放課後の校庭で球投げ
運動不足のせいか、最近眠りが浅い。夜中に何度もトイレに起きる事もある。ノコギリヤシは飲まない。(加齢について→何度もトイレに起きる時は寝る前に酒を飲んだりしてはいるが、何度もする度に律儀に沢山オシッコが出ていくので問題ないと思っている。体が寝てないだけだ。30代の見た目はほぼ「若い」と言われて過ぎようとしているが、あと2年ある。20代から耳の後ろや後頭部の汗腺の質が変化したのか、古い油のような匂いがする。これをどっかのメーカーは「ミドル脂臭」と名付けていた。それ用のシャンプーを買ったり、ひどい長髪だったのが妻と付き合うことを意識して行った散髪屋で発泡性シャンプーを買ったりしていたが、まあどうしようもなく、気を抜くと顔や鼻の中にまで脂がコーティングしてくる。これはもう時間をかけて出し切るしかない。更なる加齢を待つだけなのだが、その間にできる事としては定期的な洗髪と、起きてる間も汗をかく度に拭ったり流したりしている。寝てる間の脂は枕カバーに付いているが、不思議と悪い匂いではないようで、妻も寝ながら顔をうずめたりしている。枕カバーやタオルはうしじまいい肉さんが言っていた通りせっせと洗っている。坊主頭は嫌だと言われているので毛を伸ばしてはいるが、今朝仕事をしながら頭をかいたらぱやぱやと数本抜けて、これは6号機の白煙の影響かななんて思ってみるがただの抜け毛である。最近はお昼に近所のディスカウントスーパーのクソ安い総菜パンや弁当、激辛冷凍タンタンメンなど食べてはドクダミ茶を飲んで毒素を出した気になっている。出ているのかわからないが、うんこは出る。本当に具合が悪くなったらその類の暴食はやめるが、まだそれくらいの健康状態ではある。38歳という字面はドクダミの叢のようだ)

今はほぼ在宅でPCの前に座りっぱなしだが、昔から必要なことに体を使うのが好きなので、日中はもっと家事がしたい。掃除洗濯炊事の他、風呂場のドアを直したい。あとは要らない物を捨てたり要る物を設えたりするくらい。要る要らないには話し合いが必要で楽しいけど時間がかかるのであまり頻繁にはできない。外で畑仕事もしたいが畑がないので家の周りのドクダミを刈って茶を作るくらいである(梅雨の晴れ間に2度目の採集)。日暮れまで体を動かして夕方には縁側でビールでも飲みながらぼーっとしたい。それを自分の家でしたいのだが、広い屋敷も縁側もない。
旅先や帰省先でなく、自宅でそれがしたいというのは、自分にとって理想の日常だからだ。自宅が宿屋ならどうだろう。民泊が一般的になり、住居を宿泊先に提供する人は増えている。だが今の家にはプライベート空間しかなく貸せない。というか賃貸アパートで大家は別にいるので契約上も貸せない。自宅を貸せば理想という訳ではないがとりあえず自宅が無理なので、できるだけ近くのそういう所に働きにいくしかない。だが毎回違う場所に出かける日雇いは飽きた。一般的な体を使う仕事はマニュアル化されていてつまらない。思い付きで頭や体を使えるところがいい。適度に人の出入りがある場所を保つために必要な事をしたい。旅館などは知らない人しか来ないし、農家には知り合いしかいない。あとまだ今の仕事をやめるわけにもいかない。なかなか塩梅が難しい。

シェアといえば民泊のような持ち家のシェアもあるが、今では自転車も自動車も、観光バスまでシェアされている。料理人も出張する。出前はUberで、運ぶことに労力と時間を提供する人も増えているようだ。最寄のスーパーやコンビニに「うちの冷蔵庫」というイメージを持つように、旅館や劇場を「うちの別荘」「うちの宴会場」と思ってみる時、この「うち」というのは個としての自分が存在し得る場所ということになる。どこでも「うち」と思うようになると、場を大事にするようになるかもしれないが、実際によそに出かけた時は他人の場所として失礼のないように存在してきた。だが本当にそうなのだろうか。(所有について→ヒゲタ醤油がうまそうと思うのは何故かは謎だが、所有というのは幻想だ。自分の体すら自分が所有しているものではない。自分という意識が生まれる前に与えられた体を、管理人として死ぬまでの運用を任されているだけだ。社会上の契約は約束事に過ぎず、場合によって反故にしてよい。その場合をどう考えるかで人格が問われたりはするのだろうが、無理な物は無理だ。基本的に世界にあるものは誰のものでもないと思う。ちょっと借りてますという感じで、できるだけ楽しく生きようとするのがよい。他人の借りる権利を侵害したり奪ったり、さらには壊してしまうなんてとんでもない。皆互いに誰のものでもなく、たまたまいきあった人が同じ時間や空間を、死ぬまでの間シェアしてるだけである。)

5歳。ビックリマンチョコの食べ過ぎで肥満になる2年前。保育園に通い始めてバカな人生が始まったのだが、それまでは町内の家々を渡り歩くのが日課だった。5歳では行動範囲に限界があり、近所のおじさんおばさんの家が精々だった。顔を出して家の中を歩き回りお菓子とお茶を頂いて遊んでよい所で遊んだり、話をして帰る。それが許されたのは町内会の交流があって顔を知られていたのと、5歳児が社交性をみるみる磨いていったからだと思う。違ってたらごめんなさい。だが小さい頃にそう過ごしてきたせいか、他人の家や部屋、パーソナルスペースにお邪魔しながら生きてきたようなのが自分の核になっている気がする。先々で必要なことをするみたいな感じだ。自分の家というものが固定化したのは、妻と結婚して一緒に住むようになってからだ。他所の家でも楽しいが、何の気兼ねもなく過ごせる「我が家」を一緒に作っていくのもよいものだと知った。

38歳。在宅でPCの前で仕事をしている。誰も知らない場所でじっとしているのも好きだが、それは趣味だ。必要に応じて体を使うには他人や場所が欲しくなる。パーソナルスペースと他人と交流する場所と話がいったりきたりしているような、そうでもないか。とりあえず髪の抜ける頭を掻きながら思ったのは、自分の家のように感じる広いスペースに他人が行き来したらどうかということだ。理想に近かったのは、リニューアル前の綱島温泉。日当たりのよい広いスペースと温泉とうまくて安い食事、宴会場では音楽や舞踏ライブがあってとてもよかった。友達を連れて遊びに行ったある日、飲み過ぎた自分は全裸で共有スペースに出てしまい、大変申し訳ありませんでした。総菜を作っている人たちの仕事しに来てる感じや、宴会場でイベントをやるミュージシャンやダンサーやデザイナーの人懐っこい感じもよかった。浴場のトイレからバス乗り場が見えるのもよかった。

娯楽や美味しいご飯の他にも、介護や保育、学童保育もまかなえるスペースならさらに良い。老人介護と保育所を一緒にしたらすごくうまくいったという話もある。社会の問題は孤立から起こるのだと思うし、特に日本人は他人の目を気にするようだし、ある程度は色んな年代の他人と同じ建物内にいる方がよさそうではある。だが人が交流する場では、必ず他人を自分と同化しようと振る舞うやつが出てくる。だからルールは「和而不同」である。自分と他人の違いを違いのまま気にしない人でなければならない。特別な人などいないが、同じ人もいない。問題を起こしてイニシアチブを握ろうとするような人は放り出す。これは頭も体も使えてよい。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。所有の概念がただのお約束だと思えたら、助け合いは当然にならないだろうか。そして夜にはプライベートをしに家に帰る。そう簡単にはいかないんだろうが、無理な話でもないのではないか。健康でどこにでもいける人は好奇心の向くままに移動して帰ってきたらいいし、そうでない人にはその人が存在する場所で楽しくなるように協力する。そういう施設ですなんて言わずに、集まった人達の中で自然に問題を解決していければいい。難しいかもしれないが、いつかそういう場所だらけになったらいいなあと思う。家族というのもそういうものだとも思うし。少なくとも血縁は関係ない。一体何の話だ。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。

色々まかなえる場所があったとして、生きていて楽しいこと、必要なことが全て揃っている場所なんてものはない。町単位だとなんとかなるかもしれないが、個別に目的にアクセスするだけではつまらない。交流というか、他人に生きて見せられる場所がいい。ネットでもそういう関係がいいと思う。5歳の自分は町内会が精一杯だったが、38歳現在ではそれなりに範囲は広がっている。好奇心の動くままに行動できたら楽しいだろうが仕事はあり、約束はあり、家族があり、年相応に老いて疲れてきてもいる。どこも「うち」だという感覚は同時に、どこにも行かなくてもいいやという気分にもさせる。台風3号が明日の朝には発生するらしく、妻はお菓子を食べたがぐったりしている。これはどうしようもなくて、彼女の体の構造や、自然現象の影響なのである。自分はワインを飲んでいるので、歯を磨いてもきっと臭いと言われるのである。

伝える

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妻の誕生祝でうちに来た、うさこちゃん

日没前後に住宅街を歩いていると、夕餉の匂いや音がしてくる。自分が死んだ後も同じような匂いがしてるんだなと思うと、切ない気持ちになる。その切なさを「未来郷愁」と呼んでいたのは上京して間もない頃、酎ハイ片手に知らない町を歩いていた頃である。夏の家賃が安い一帯では稀に情交の音も聞こえてきて立ち止まりそうになり、慌てて酎ハイを飲んで誤魔化すような頃だった。また自分が生まれる前にも、同じ匂いや音がしていたんだなと思うのも切ない。郷愁というのは意識が向いた時に想像によって起こるものである。別の切なさでは、今全力で生きて見せられた瞬間などもあって、それは取り返しのつかなさに震えるようである。どんな切なさにせよ、生きるということに密接な感情なので好きだ。

切ないのは死ぬからである。いつ死ぬかはわからないが、必ず死ぬ。あ、死ぬじゃねえかと思うと何かを伝えなければと思う。自分が死んだ後に生きる人たちに、自分が生きて感じたことや経験を伝えたい。何かは、具体的に生きていく方法だったり、方法までいかないただの実例だったりする。それは子供がいてもいなくても変わらない。せっかく生きたのに、もったいない。

先日伊集院光の朝のラジオにゲストで佐渡島庸平という編集者が出ていた。作家のエージェントとしてより面白い本を作ろうとしている彼の話は面白かった。彼が携わった『ドラゴン桜』という東大受験の漫画は、作家が元々描いていた野球漫画における目的達成の為のメソッドや、若者が必至にがんばる姿は美しいと思う感性に共感した氏が、興味を持つ人数の多い大学受験に場を変えて生まれたものだという。すごいなと思ったのは、続編の『ドラゴン桜2』では前作を読んで東大に合格した現役学生を集め最新の受験メソッドを作ってもらい、さらに実際に高校生に直接教えたりしているということだ。リアル「ドラゴン桜」が実現しているというのである。氏は再現性のある形で言語化することが重要であり、情報を簡略化して再現することが肝だと言っている。※佐渡島庸平氏(株式会社コルク)にインタビュー

再現されるものは、作家の純粋な好奇心やワクワクが向くもの。それができれば、沢山売れるし、少なくとも友達ができる。今の世の中で重要視されるのは、友達がどれだけいるかだ。金があるかとか、SNSのフォロワーが何人いるかではない。極端な話、国が国民の面倒をみなくなっても(既に形骸化は進んでいるが)助け合える人がいれば生きていけるだろう。だから他人に伝えることについて、いつも考えている方がいいのである。相手や自分の状況によって伝え方は変わる。使う言葉や伝える順番、身振りや声のトーンから派生して歌や楽器、プレゼントや建物、カメラで写す被写体まで、あらゆるものが伝えるツールになる。そして伝える時、自分の感情をどう取り扱うかも重要だ。感情を整理する中で、自己同一視についても考えることになる。何に、何故、どこまで、自分は自己同一視して、感情を動かしているのか言語化した方がいい。近年話題になる家族や社会の問題も、当事者による言語化から始まったものだ。

だが感情の取り扱いは、整理してもしきれない。何かに仮託しても瞬間ごとに変わっていく。自分は感情の起伏が小さいというのもあり、今俺はこうなんだ!ぎゃー!というのも嫌いではない(むしろ好きだ)が、ちょっと寝かして他人事にしてから出したい。できるだけ私から離れて、ただ切ないという気持ちになったものを出したいと思ってしまう。格好つけなのかもしれないし、リアルタイムに未整理の感情を出すのが恥ずかしいのかもしれない。ただ、そこに自分がいる/いないが曖昧になった状態が一番好きなのは間違いない。酒の好きなところも、今ではそこだけである。切なさにこだわっていると、色んなものが切なく見えてくる。その中には自然や他人も含まれる。死ぬんだなあ、今は生きているなあと思う。

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タイムラインで流れてきたライブ情報。朝崎郁恵さん出演。
>※30歳以下特別Discount ¥3,000引き
いいなあ。

奄美島唄などを聴いていると、とても切ない。住宅街をうろついていた頃の自分にも近しく、家で仕事をしている自分にも近しい。それでどうしたということはないが、どんな時でも泣き笑いのような切なさが底にあるのだと伝えたい。それはきっとみんな一緒だと思う。理由は今、生きているから。

見る

先に夕飯を食べ終えてぼーっといつもの「寅さん」を眺めていると妻が「若いねえ」と言った。旅に出る寅次郎をさくらが見送るシーン。まだシリーズの最初の方の回で、見る度に自分も若いと思うので「若いねえ」と言ったら、妻が「見惚れちゃダメよ」とふざけた。自分は乱視が進んでいるので、眼鏡をしてないと焦点を合わせ続けられない。ちゃんと見てみようと思い、まだ食べている妻の顔や口の動き、皿に運ぶサラダのトマトや甘栗やアボカド、こちらを窺う妻の目などに焦点を合わせてみた。やはり焦点は一時的にしか合わないが、普段よりきれいに見えた。見ようとしている自分の目も普段より目力があるんだろう。食後にひと仕事して、情報量が多い画面を見続ける。慣れているので必要なところしか見ない。目が悪くなっていくことに慣れ、疲れないように見ることに慣れている。見ることは無意識に固定されていき、意識が向くものや動く道筋も同じになりがちだ。仕事が終わって、今日は満月だったので妻と散歩する。ルーペを持ち出して目に当ててみるが、いっぱいに白い光が広がるだけだった。妻に目が悪くなるからやめろとしかられる。ルーペを持ったまましばらく散歩をする。ゴキブリ2匹と遭遇し、近年のゴキブリは弱弱しい気がするという話をする。夜の公演を回り、お化けを見たことがあるかなど話し、他の虫やヤモリなどの小動物には会わなかった。風もなく、静かな夜を見た。

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たまに夜球を投げる

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多摩動物園にて

風が好きだ。風は空気の移動で、温度変化で生じる気圧差で起こる。地形との摩擦や自転の影響も受ける。問答無用で起きる。都市では電車に押されて風が吹く。運動でも風は起きるが、浴びていて気持ちよくはない。無意識に吹いている風の方がいい。地球から空気が無くなるまで風は吹き続け、気圧差が無くなったら止まる。運動も差があるから起こる。移動以外にも色んな目的があって、何かが足りない時に起こる。社会的な運動の目的は均質化だったりもする。物理は勝手に均質化に向かうんだし、生き物がわざわざ均質化を進めることはない。どうせするなら、個人は異なるもの同士で交わり、多様性を増やす運動をした方がいい。話がすり替わってしまった。ただただ仕方なく吹いている風が好きだ。一面砂利と雑草が生えたような空き地で風に吹かれていたい。それで側溝のザリガニを取ろうとしている子供など眺めていたい。空き地はどんどんなくなっているし、そんな子供はもういないかもしれない。ザリガニが側溝に入るような環境もない。でもそんな想像の場所ですら空気の動きを感じてみる時、自我がなくなる感じがしてちょっとうっとりする。

『暗黒日記』は寝る前に少しずつ読んでやっと50ページくらい。予想通り暗くなるというか、程度の差はあれ現在と変わらない部分が多く、自分の事しか考えられない政府首脳のままでは、戦争を起こされる事も有り得るという思いの現実味が増した。筆者の人柄と知性に救われるような気もするが、戦争を止められなかった市井の一人としての絶望を感じる。そして昔の人の名前は難しい。『最初の悪い男』は先に妻が読んでいてとても面白そうである。

つゆ

もともとこのブログは会社をやめて小劇場の板に立った時に、自分を知ってもらうために始めたものである。社会的に何者かであるアピールをしなければと思っていた。何をしたとか、何がありますので来てねとかの他に、こんな面白いもの見つけたよ!とか、自分ってこんなこと考えてるんだぜなんてことも酔った勢いで書いていたが、舞台を降りると告知もなくなり、こんなこと考えてるんだぜえばかりになっていく。読んでくれた人の感想では、日常の具体的な出来事の記述、つまりはただの日記の方が人気があった。気持ちの整理のために書いたものより、体のすぐ外側に目を向けて書かれたものの方がいい。内面を語る言葉は整理すると抽象的になる。それよりは端的な言葉でも、具体的に書いた方がいい。

今日は朝から雨が降り続けで、部屋の中はずっと暗かった。台所の灯りは全て暖色で、点けると『ホタルの墓』の過去みたいに黄色い。昨日の日中はまだ雨は降ってなかったので、外に出て板をのこぎりで切った。先日どくだみを刈ったところだ。寝室の隅に放置されていた収納箱を空け、中身を空き部屋にあるスノコと切った板で組んだ簡単な本棚に移す。ボックスには使わなくなり出っ放しになっていたモニタを詰め、備え付けの収納に仕舞った。スペースを作るのに空き箱など片付けていると、引っ越してきた時に買った照明が出てきたので台所に取り付け、妻が義母からもらった派手めの服を着て妻に見せて、寝た。今日は雨も風も強く、仕事の休憩中も公園にボール投げに行けない。空き部屋に行きしばらく眺める。本棚は横板が途中でたわむのでつっかえ棒代わりにしていた本を手に取ると『暗黒日記』だった。太平洋戦争当時の2年5ヶ月に渡る日記で、2年前に買ってから1ページも読んでいない。居間に持ってきてテーブルに置き、本の表紙を眺める。ああ、読みたくない。暗くなるに決まっている。『ゲド戦記』『コクリコ坂』とか未見のジブリ作品を観てみようかなどと思う。でも読みたくないと思うものは読まなければならないと思い、寝室に持っていった。仕事は進まず、童貞の恋人とのことに悩む知り合い向きの記事を送ったり、国民年金保険料の産前産後期間の免除制度についてSNSでシェアしたりした。

バイトから帰ってきた妻は気圧のせいで体調が悪いという。夫はどうだと訊くので、悪くはないけど落ち込んでると答えた。何で落ち込んでるのと訊くので天気が悪くて暗いからだよと答えた。そんな訳でこの記事は今日妻が不在の間の夫の行動から、落ち込んでる感じを雰囲気で伝えてみようと思い書いた。あ、あと蟲師のBGMの後で女子美大の寮にまつわる怪談も聴いてた。結局内面を語ってるじゃねえか。すいません。写真でも語っちゃうぞ↓

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言うほど黄色くはない
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整理が必要な空き部屋
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どーん。分厚い

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これです

社会(はじめまして)

こないだ「今の日本は鬱なのだ」というツイートを見た。うまいこというなあ、と思いながら、自分も社会の役になんか立つまいと思ってたら、更に社会がクソになってしまった申し訳なさに思い至る。「当然そういうもの」という建前がまかり通ってるとか、生きてて幸せと思えない人がいるとか、全然持続可能じゃないとか。傷付けられて弱ってる人たちや、まだまだクソの中でスタートしなければならない子供たちに対して勝手に申し訳ないと思う。生きてる事が楽しいなら独りよがりで全然いいのだが、他人を傷付けるのはアウト、退場。他人を傷付けない為には他人を知らなければならないし、他人を傷付ける気持ちよさが在るとわかった上で、それを感じてるのはダサい。ダサいなんて軽いものではないけど、そういうことさえ守れたら、後はみんな勝手に生きて死んでいけばいいんだが、そういうことにはまだなっていない。

でも社会、めんどくさい。めんどくさいので基本はどうでもいいんだけど、危険を感じる状態は当然よくない。野球の球投げした後にも存分に風の気持ちよさに集中していたい。どうすれば最低限OKと思える社会になるのかといえば、みんなが自分より他人に興味を持ち、面白がれる状態が少なくとも要る。自分が正しいとか、絶対なんて考えはなしだ。感覚的には、みんな違う世界に生きているから、自分の感じ方や意見にも普遍性があるとは思わない。でもそれぞれの世界を形作るリソースもまた同じ世界だから、誰かと重なる瞬間はあるかもしれないとは思う。本当も嘘もごちゃまぜで、自分自身や状況に応じて都合よく情報を受け容れたりしているのは、例えば政治家がダメとかいう以前に、人がそういうものだからだと思う。意識してないと自分で自分の記憶も改ざんしてしまうみたいな。ダメなものだという意識から始めたい。

昔、高円寺でシランプリという服屋をやってた陽光(ひかる)さんには、大学の友達だったダンサーのホナちゃんのライブで出会った。陽光さんはダンサーの鈴木ユキオ氏と一緒に、確か金魚×10という名前のユニットをやっていて、主に喋り担当だった。駅前の地べたで、コンビニの酒とツマミで飲む「場ショップ」というのをやっていた。天才だと思った。しかもひらめきと行動が同時の人だ。その後職場が高円寺になり、仕事帰りに酎ハイを買って店に差し入れたりしていた。仕事を辞めて迷走したあげくに女装した時にも服を買いに行ったり、そのままおうちにお邪魔して、麻雀した事も一度だけあるが、酔っぱらっててあまり覚えてない。このブログの最初の頃にも陽光さんのことを書いていたが、誰もやってないことやってるカッコいい人として遠くから見ていた。

今は「途中でやめる」というブランドの服がバカ売れしている。もちろんデザインも売れる理由だと思うが「作れば作るほど儲からない」という資本主義の逆をガチでやってるという姿勢がまた共感を得ているんだと思う。遠くから見ていたと書いたが、あの頃出会った面白い人たちの中でも親しみやすさはダントツで、最近陽光さんが友達とやってる「牛丼ラジオ」の感想を、まとまってないまま送った。友達に送るよりさらにゆるい文章だったが、なんとなく陽光さんなら面白がってくれるかも、と思った。正直まとめてしまうとつまらないと思うくらいの内容だったが、えいやっと送った。するとソッコーで返事があり、自分が聞いた回の出演者のナカコさんにも感想をシェアしていて、そのナカコさんからお勧めの本として『最初の悪い男』を教えてもらった。さすが「100%嘘の出会い系」をやったり「古インターネット屋」やろうとしてるだけある。さらにはメルマガにも感想を紹介してくれて、昼間のツイッターリツイートされ、フォロワーが増えた。影響力…!ネットを通じて、陽光さんの社会にちょっと入った感じがする。

SNSなどで個人の思いや感情の一端を目にし続けていると、いかにもおもしろいことや役に立つことはもういいよと思ったりする(暇な時や困った時は有難い)。それより当人にとって切実なもの、意図すらしないものや、ただそこに起きている現象だけが欲しくなる。意味のないもの、マヌケなもの、なんでこうなったというものは、それでいいんだと思えるから、いつまでもあってほしい。自分は、ミーハーなところもあるが、基本的に違う世界を生きている他人に、同程度の興味と距離を持ち続けてるとは思っている(家族は特別)。意味のないものや理解できないものが面白い。自分には普遍性を指向するような強い表現もできないし、社会の中で新しいやり方を思いついたり、他人を結び付けたりもできない。映像が浮かばないと文章も書けない。きっと誰かにとってどうでもいいようなこと、歩いていて見かけた壁の修繕跡がかっこいいとか、家の中のハエトリグモがかわいいとかそういうことだけで毎日楽しく生きてる人なので、これからも楽しんで幸せになること、あとはまあできるだけ困ってる人の力になるとか、自分にできるのはそれくらいである。人以外の動物が好きな妻と結婚してからは泥酔することもなくなり、あまり変なこともしなくなった。最近は庭のドクダミを刈って、お茶を作って飲んだらおいしくて、うんこがもりもり出た。そんな感じです。宜しくお願いします。

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うちのかわいいひとたち(一部)

お気に入り

一般的に好きなものというのは、理由はわからないが固執してしまうものを指すのだろう。自分は固執しないことに固執するという、どうしようもない考えでこれまで生きてきたので、自分のことは一般的な好きという感覚がわからない、つまり情の薄い人間なんだろうと思っていた。諸行無常の気分でいて喜怒哀楽がない。大切な人が出来ても距離があるのは仕方ないと詰めようとしないので「本当に好きなの?」と訊かれることも多かった。固執しないというのは、変わることを好むということで、大概の現象を受け容れられるともいえる。好きなものを考えてみるより、嫌いなものを挙げる方が少なくて楽だ。まあ情は薄い。

それがパートナーが出来てからは、彼女との関係に固執することになる。初めて彼女と会った時「先住民みたいな人だな」と思った。前髪ぱっつんで黒髪だからではなく、東京で生まれて育ったのに土の臭いがする気がしたからだ。その予感は当たっていて、自分を飾ってみせることもないし、他人を含むあらゆる現象と向き合って心を動かすし、何より自分の中の基準を大事にする真っ当な人だった。俳優でいながら飾らずにいられるなんて恰好よい。だが彼女は周囲の人間も真っ当であると信じたがっていたようで、不満を抱えていた。一方自分は常識は嗜む程度でお茶を濁すし、ほぼ毎日泥酔しては酒の力を借り日常に変化を起こそうとするような人だったので、付き合い始めて「これが真っ当ということか」と思うことがたくさんあった。自分にはない彼女の真っ当さに固執していた。

平たく言えば未熟者同士、酔っぱらってケンカすることも多かった。ケンカの時は怒った。そしてすぐ仲直りしたいと思った。正直に話し合うことが、二人とも好きだったのは幸いである。人生で最も悲しい経験も一緒にして、受け容れることもできた。生活が変わり、何か起こる度に弱いところを見せたり、逆に強さを見直したりしながら認め合っていったのだと思う。家族になった。生まれた時からあった家族とは違って、互いの意志で作る家族である。自然発生的に起こったものに目を向け、固めていく意志を持った。そして今は家族でいることに固執しているわけだが、変化を拒んでいるわけではない。彼女とは物事の受け取り方や反応など違う部分はたくさんあり、相変わらず興味深い。ソウルメイトといわれるものもよくわからないし、多分そういうものではないのだろうとは思う。でも彼女の事は世界で一番信頼している。

人間の好奇心は全方位に向かっている。もちろんよくないことにも向かうので、そこでどう行動するかは倫理観と、信頼する人の有無に左右されるのだろうと思う。結論からいえば楽観的なのだが、自分はまず悪い想像をするクセがある。帰宅時には、誰かがドアを開けた瞬間に攻撃してくる事を想像するので、まず中を一瞥してから入る。予期した以上、予期せぬ不幸は減るからで、防犯上よい習慣だと思う。社会への疑いも捨ててはいけないと思うし、そもそも人間の中にある悪意の存在から目を離せない。避けられない理不尽は、この世に間違いなく存在する。そんなところにおいて、世界で一番信頼する人と、これからも守りたいと思える関係が作れたことは誇らしい。もはやそれはお気に入りである。またこんな事を書くと「軽い!」と怒られるかもしれないけど。でも唯一無二のお気に入りなのである。

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つばめをよく見る