低気圧

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放課後の校庭で球投げ
運動不足のせいか、最近眠りが浅い。夜中に何度もトイレに起きる事もある。ノコギリヤシは飲まない。(加齢について→何度もトイレに起きる時は寝る前に酒を飲んだりしてはいるが、何度もする度に律儀に沢山オシッコが出ていくので問題ないと思っている。体が寝てないだけだ。30代の見た目はほぼ「若い」と言われて過ぎようとしているが、あと2年ある。20代から耳の後ろや後頭部の汗腺の質が変化したのか、古い油のような匂いがする。これをどっかのメーカーは「ミドル脂臭」と名付けていた。それ用のシャンプーを買ったり、ひどい長髪だったのが妻と付き合うことを意識して行った散髪屋で発泡性シャンプーを買ったりしていたが、まあどうしようもなく、気を抜くと顔や鼻の中にまで脂がコーティングしてくる。これはもう時間をかけて出し切るしかない。更なる加齢を待つだけなのだが、その間にできる事としては定期的な洗髪と、起きてる間も汗をかく度に拭ったり流したりしている。寝てる間の脂は枕カバーに付いているが、不思議と悪い匂いではないようで、妻も寝ながら顔をうずめたりしている。枕カバーやタオルはうしじまいい肉さんが言っていた通りせっせと洗っている。坊主頭は嫌だと言われているので毛を伸ばしてはいるが、今朝仕事をしながら頭をかいたらぱやぱやと数本抜けて、これは6号機の白煙の影響かななんて思ってみるがただの抜け毛である。最近はお昼に近所のディスカウントスーパーのクソ安い総菜パンや弁当、激辛冷凍タンタンメンなど食べてはドクダミ茶を飲んで毒素を出した気になっている。出ているのかわからないが、うんこは出る。本当に具合が悪くなったらその類の暴食はやめるが、まだそれくらいの健康状態ではある。38歳という字面はドクダミの叢のようだ)

今はほぼ在宅でPCの前に座りっぱなしだが、昔から必要なことに体を使うのが好きなので、日中はもっと家事がしたい。掃除洗濯炊事の他、風呂場のドアを直したい。あとは要らない物を捨てたり要る物を設えたりするくらい。要る要らないには話し合いが必要で楽しいけど時間がかかるのであまり頻繁にはできない。外で畑仕事もしたいが畑がないので家の周りのドクダミを刈って茶を作るくらいである(梅雨の晴れ間に2度目の採集)。日暮れまで体を動かして夕方には縁側でビールでも飲みながらぼーっとしたい。それを自分の家でしたいのだが、広い屋敷も縁側もない。
旅先や帰省先でなく、自宅でそれがしたいというのは、自分にとって理想の日常だからだ。自宅が宿屋ならどうだろう。民泊が一般的になり、住居を宿泊先に提供する人は増えている。だが今の家にはプライベート空間しかなく貸せない。というか賃貸アパートで大家は別にいるので契約上も貸せない。自宅を貸せば理想という訳ではないがとりあえず自宅が無理なので、できるだけ近くのそういう所に働きにいくしかない。だが毎回違う場所に出かける日雇いは飽きた。一般的な体を使う仕事はマニュアル化されていてつまらない。思い付きで頭や体を使えるところがいい。適度に人の出入りがある場所を保つために必要な事をしたい。旅館などは知らない人しか来ないし、農家には知り合いしかいない。あとまだ今の仕事をやめるわけにもいかない。なかなか塩梅が難しい。

シェアといえば民泊のような持ち家のシェアもあるが、今では自転車も自動車も、観光バスまでシェアされている。料理人も出張する。出前はUberで、運ぶことに労力と時間を提供する人も増えているようだ。最寄のスーパーやコンビニに「うちの冷蔵庫」というイメージを持つように、旅館や劇場を「うちの別荘」「うちの宴会場」と思ってみる時、この「うち」というのは個としての自分が存在し得る場所ということになる。どこでも「うち」と思うようになると、場を大事にするようになるかもしれないが、実際によそに出かけた時は他人の場所として失礼のないように存在してきた。だが本当にそうなのだろうか。(所有について→ヒゲタ醤油がうまそうと思うのは何故かは謎だが、所有というのは幻想だ。自分の体すら自分が所有しているものではない。自分という意識が生まれる前に与えられた体を、管理人として死ぬまでの運用を任されているだけだ。社会上の契約は約束事に過ぎず、場合によって反故にしてよい。その場合をどう考えるかで人格が問われたりはするのだろうが、無理な物は無理だ。基本的に世界にあるものは誰のものでもないと思う。ちょっと借りてますという感じで、できるだけ楽しく生きようとするのがよい。他人の借りる権利を侵害したり奪ったり、さらには壊してしまうなんてとんでもない。皆互いに誰のものでもなく、たまたまいきあった人が同じ時間や空間を、死ぬまでの間シェアしてるだけである。)

5歳。ビックリマンチョコの食べ過ぎで肥満になる2年前。保育園に通い始めてバカな人生が始まったのだが、それまでは町内の家々を渡り歩くのが日課だった。5歳では行動範囲に限界があり、近所のおじさんおばさんの家が精々だった。顔を出して家の中を歩き回りお菓子とお茶を頂いて遊んでよい所で遊んだり、話をして帰る。それが許されたのは町内会の交流があって顔を知られていたのと、5歳児が社交性をみるみる磨いていったからだと思う。違ってたらごめんなさい。だが小さい頃にそう過ごしてきたせいか、他人の家や部屋、パーソナルスペースにお邪魔しながら生きてきたようなのが自分の核になっている気がする。先々で必要なことをするみたいな感じだ。自分の家というものが固定化したのは、妻と結婚して一緒に住むようになってからだ。他所の家でも楽しいが、何の気兼ねもなく過ごせる「我が家」を一緒に作っていくのもよいものだと知った。

38歳。在宅でPCの前で仕事をしている。誰も知らない場所でじっとしているのも好きだが、それは趣味だ。必要に応じて体を使うには他人や場所が欲しくなる。パーソナルスペースと他人と交流する場所と話がいったりきたりしているような、そうでもないか。とりあえず髪の抜ける頭を掻きながら思ったのは、自分の家のように感じる広いスペースに他人が行き来したらどうかということだ。理想に近かったのは、リニューアル前の綱島温泉。日当たりのよい広いスペースと温泉とうまくて安い食事、宴会場では音楽や舞踏ライブがあってとてもよかった。友達を連れて遊びに行ったある日、飲み過ぎた自分は全裸で共有スペースに出てしまい、大変申し訳ありませんでした。総菜を作っている人たちの仕事しに来てる感じや、宴会場でイベントをやるミュージシャンやダンサーやデザイナーの人懐っこい感じもよかった。浴場のトイレからバス乗り場が見えるのもよかった。

娯楽や美味しいご飯の他にも、介護や保育、学童保育もまかなえるスペースならさらに良い。老人介護と保育所を一緒にしたらすごくうまくいったという話もある。社会の問題は孤立から起こるのだと思うし、特に日本人は他人の目を気にするようだし、ある程度は色んな年代の他人と同じ建物内にいる方がよさそうではある。だが人が交流する場では、必ず他人を自分と同化しようと振る舞うやつが出てくる。だからルールは「和而不同」である。自分と他人の違いを違いのまま気にしない人でなければならない。特別な人などいないが、同じ人もいない。問題を起こしてイニシアチブを握ろうとするような人は放り出す。これは頭も体も使えてよい。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。所有の概念がただのお約束だと思えたら、助け合いは当然にならないだろうか。そして夜にはプライベートをしに家に帰る。そう簡単にはいかないんだろうが、無理な話でもないのではないか。健康でどこにでもいける人は好奇心の向くままに移動して帰ってきたらいいし、そうでない人にはその人が存在する場所で楽しくなるように協力する。そういう施設ですなんて言わずに、集まった人達の中で自然に問題を解決していければいい。難しいかもしれないが、いつかそういう場所だらけになったらいいなあと思う。家族というのもそういうものだとも思うし。少なくとも血縁は関係ない。一体何の話だ。自分は壁に球を投げたい(役立たず)。

色々まかなえる場所があったとして、生きていて楽しいこと、必要なことが全て揃っている場所なんてものはない。町単位だとなんとかなるかもしれないが、個別に目的にアクセスするだけではつまらない。交流というか、他人に生きて見せられる場所がいい。ネットでもそういう関係がいいと思う。5歳の自分は町内会が精一杯だったが、38歳現在ではそれなりに範囲は広がっている。好奇心の動くままに行動できたら楽しいだろうが仕事はあり、約束はあり、家族があり、年相応に老いて疲れてきてもいる。どこも「うち」だという感覚は同時に、どこにも行かなくてもいいやという気分にもさせる。台風3号が明日の朝には発生するらしく、妻はお菓子を食べたがぐったりしている。これはどうしようもなくて、彼女の体の構造や、自然現象の影響なのである。自分はワインを飲んでいるので、歯を磨いてもきっと臭いと言われるのである。