連日

娘が死んでからも妻の両親と職場の人、その他大勢と会っている
最寄りのコンビニで、身重の妻を見知った店員にも会っている
一方妻は入院中の病院という閉鎖的な場所でも、
自分の両親と見舞いに来た親しい友人、別の患者等と会っている
ここ数カ月で知り合った大勢の医者と看護師、助産師に会っている


更に物理的な場所を越えて、
私達はネットでも案外率直に沢山の言葉を交わしている
この3日間の全てのやりとりに、娘の死が関わっている
やりとりから得た経験と感想を携えて
仕事終わりに妻の病院へ行き
二人で話し合う時間が、今の私には一番の救いになっている


昨日は昼休みにスーパーに行って
のり弁を持ってレジに並んだ
前の女性が乳幼児を胸に抱えていることは
並ぶ前から判っていたが
視覚情報として認識するだけなら問題ない。それが
「妻がもし娘を抱っこして買い物しに来てたら」
と思った瞬間にぐわーと涙が出るのである
妻と娘がここに買い物に来る前後の道すがら、
娘が目をやる物や、それを見て何か話す妻を想像してしまう
連想や想像は人間の性だし、
買い溜めなのか前の人のカゴはパンパンで
会計が済むまでに2分余りの時間があるからだ
「待たされて不機嫌の余り涙が出ちゃった変な人」
などと思われないように、数秒おきに視線を動かし
何気ない風で後ろを振り返ると、別の少し年長の幼児が
こちらを見上げていたりするのである
この経験から得た私の感想は、
自分の願望に基づく「もし〜だったら」は泣いて困るだけだということ
すーちゃんの体が生きているなんて、仮想現実でしかない。
もしそんな夢を望んで求めたら、覚めた世界には絶望しかないだろう

連絡くれた人に少しずつ返してるんだけど、そしたら自分の気持ちがまた言語化されて整理されて(それも連絡くれた人たちのお陰、引いてはすーちゃんのお陰だね)、
その結果『すーちゃんはやっぱ超すごい』ってのに行き着いた。
『死にゆく運命の可哀想な子』のはずなのに見る人見る人みんな笑顔になったこと。生まれる前の診断より実際はものすごく重症だったのに14時間も生きたこと。そしてお腹の中であんなに、あんなに元気だったこと。うちの子はまじでほんとにすごいよおとしゃん。
だから勿論悲しくもあるけど、それ以上に温かい幸せな記憶として、今回のすーちゃんとの思い出を一生大事にできそう。勿論また会いたいし会えると信じてるけどね。
すーちゃんはスーパーマンだったのね。

オンナノコヨォプリプリ


朝、妻がくれたLINEである
半角カナは、娘である(半角カナは他に家のぬいぐるみ達も使うので、話題や口調で書き分ける)
ガーンと目が覚めるようだった
妻の言っている事は、願望に基づく仮定法ではなく
現象の観察を集めて得た直観だからだ
私達は娘が死んだ直後のCTスキャンも見ているし
娘の体に起きていた事と予想されていた事については
この数カ月かなり真正面に向き合ってきたと思うので
願望が認識を歪めているとは思えなかった
すーちゃんは人ではなかったのである


何故彼女の寿命は14時間だったのか
観察し得る現実を直視した上で判らない答
求めれば答は無数にある
自分の好きなように思っていいということだ
それは願望による仮定法ではない
想像は人間の性である


カミサマだったのである
病院の共有スペースで妻と話してすぐに出た答だ
人とは異なるスケールの存在と思えば
一緒に居られた時間の短さも
納得に変わるようで愉快である


ちなみになぜ娘の爪が長かったのかというと
彼女が妻のお腹の中で過ごしていた昼間に
自分の顔の前にかざした手の
爪が半透明で綺麗だったからだ
(ただの楽しい想像である)


私達は、お互い我の強い夫婦だ
妊娠前は互いの意地の所為で分かり合えないままのことも
酒でうやむやにしたり、勢いで傷つけあったりしてきた
すーちゃんはそんな二人を同じ気持ちにさせてくれた
「見えない私を見て」「生まれた後の私を見て」
そして死んだ後には、自転車で雨
雨が涙を隠すようにすーちゃんが降らせた
急に涼しくなったのも節目にしてねというメッセージだ
親父の遺体を乗せた棺が実家を出発した時
雪が降りだしたのを親父が役者だったからニクイねなんて
話しあったのを思い出した


カミサマなんだろう
そう思ってみると寿命という字も
とてもよい字に見える
彼女は純粋で完璧な人生を送ったのだ


死んだ日は何も考えられなかった
手続きに追われ不自然さに戸惑い打ちひしがれもしたが
翌日には知人からお経も貸してもらったり、
自分で戒名を付けてもいいと知ったりもした


笑解院清穏彗好嬰女


早速戒名の付け方というサイトを見ながら
仕事の合間にトイレで出しただけあって
朗らかな戒名である
もうちょっと考えた方がいいか


翌々日、妻の文章は彼女が真っ当であるということを教えてくれた
真っ当とは自分と世界との関係性を持てるということだろう
笑い笑われ、泣き泣かれ、怒り怒られ、許し許される
一人で完結していては何にもならないということだ
カミサマが改めて気付かせてくれた


日曜にはお腹のホチキスを抜いてもらい妻が退院する
月曜は友引なので、火曜日に娘の火葬である
カミサマであろうと、10カ月弱見ようとし続けた
愛しいものとのお別れに違いはない
現実は理屈ではないので、また涙が沢山出るだろう
それでも私達は生きているし
すーちゃんも一緒にこれからも
できるだけ真っ当に生きていきたい


とりあえず今日は一人で
近所のスーパーでチューハイを買ったら
活舌の悪いレジのお兄さんが
「ちどよどあだわす」と言ったので
笑った