木を見る

言葉を無自覚に使ってしまい、誤解されることがある
(必死に生きる)という意味で「死ぬ気で生きる」と言ったり
(おいしいけど、もっとおいしくできた気がする)という趣旨で
「おいしいかもしらんけど」と言ってしまったり

前回のブログでは「他人に迷惑をかけない」ということを
まるで当然のことのように無自覚に書いてしまったが
自分は無意識では気にしていたのかもしれないと思った

なぜ気にするのか、考えてみると
「自分も好きなことを邪魔されたくないから」というのと
「自分で自分を恥ずかしがっているから」というのがある

例えば走ることだって「ひとり遊び」だ
健康や美容、身体能力の向上といった目的意識がない
ただ重心を前方に運び続けていく内に
体が勝手に動くのを観察して楽しむ遊びだ
カラカラになった口の奥から臭ってくるものとか
肺や心臓の形の変化や、皮膚が汗だくになることも
観察しては楽しんでいる

ほんとに誰の為にもならない
そうしてると楽しい自分の為だけの行いである
このことがちょっと恥ずかしいのだ
「なんだか、こんなんですみません」と
申し訳ないような気分にもなる

恥ずかしいくせに開き直っているのでブログなどに
「わからないけど気になったこと」を書いている
わかってないから、言葉がふわふわしている
「表現とは自分がわからない事や状態の表明から始まる
この世界をわかりたい気持ちの表出なのだ!」と
過程を見せる途中で自分を慰める恥ずかしさも
きっとどこかで楽しんでいることも恥ずかしい

だがやはり、無自覚でいることは悪だ
少なくとも自分が腹を立てる他人の振舞いも
無自覚からくるものあることは間違いない
だから自分も無自覚に言葉を使うのはいけない
少なくとも「ひとり遊び」とは
自分の体と意識に自覚的になることなので
他の事もしっかりしなきゃなと思う

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たぶんぶた
・「回文カルタ」かたるか かるたか
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