六
人間は何の為に感動するのか
と問いを立てた事がある
その時想定した感動は怒りや悲しみや後悔などの類の
ネガティブな感情を刺激された状態以外のものである
人間に感動する機能が付いている理由が知りたかった
自分が最初に出した答は
「生きるのに飽きない為」だった
生き物が死なない為の機能なのである
でも目的があって付いた機能なのか
人間以外のものも感動するのか
生理的に気持ちいいのは何故なのか
それからまた歳をとって
誰かが今、100%本気でいる状態が伝わってきた時
またそのように自分が感じられた時に感動するので
「自分以外のものとつながる為」ではと思った
「自分以外のものを信じる為」と言ってもよい
もしそれが瞬間的であっても
人の計算が信じられないように
教科書に載るような歴史ですら
腹ではなかなか信じられないものである
知識や経験や想像力にも左右されるとは思うが
少なくとも信じられるのは、今感じられるものである
雨の日に屋根の下の勾配のある道を
溜まった水が流れていくのを
今地球上に生きているものに重ねて思う事がある
下った先が未来である
大本の同じ水がそれぞれ違うところへ向かっていく時
表面上のそれぞれの今にズームアップして
差異を気にするのはどうなんだろうと思ったりもする
注目されるものもあればされないものもあるし
差異はあるが、差異しかないのだし
でも流れる先端として生きているものには
今だけが信じられるものだから
やはり必死に生きていくしかないなあとか
ちなみに水が流れていく場所も
また別の変化していくものであり
時間を遡れば大本では全部つながっている
赤ちゃんのそもそも主観が全てという感覚は
生き物単体としては正しい気がするが
自分が知覚するように他人も知覚するという思い込みは
経験から否定されていくものである
共感は本来勝手に起こるものであり
受け手が勝手に伝わったと感じるし思うものだ
異なる主観が異なる経験を重ねて
交わったり別れたりしていくのだが
やはりつながっているという意識は
同じ生きているものに共感することは
なんだかとても必要なことのような気がする
「生きるのに飽きない為」も
「自分以外のものを信じる為」も
人間が死なない為の機能のような気がしている