疑いと老い

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千葉市動物公園のゴリラ「モンタ」

SNSで他人の苦しみや喜びが可視化されて久しい
問題は苦しみがなかなか解消されない事で
それが何故苦しみなのかすらわからない人も多い
どの問題にも共通してある原因として
苦痛を与える人の、偏った自らの常識への妄信がある

常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
アルベルト・アインシュタイン - Wikiquote

日本では自分が生きている世界の現状への無知や
自分とは異なる者に対する無理解により
よくても20年前、中には経済成長期から
価値観が変わらない人が大半を占めている
自分が楽しかった時代や、逆に不条理を強制された時代に
身に付けた偏見は、異質なものを排除する「正当さ」となり
また当人と価値観を同じくする人たちの常識となる
そして自分と異なる価値観を持つ人たちを傷付け貶め
同調圧力を発動し偏見の共有を強いる
偏見を常識だと思っているから、
悪意なく無意識にそれをする

SNSで個人の苦しみを見かけた時、
私は当事者と自分の差異の中で、
現在当事者が苦しんでいる部分を
自分も同じくらい不当、苦痛と思えるよう、
条件を置き換えて想像してみる
これは自分の偏見を確認したいと思うからでもあるし
人間ってなんなのか理解を深めたいからでもある
そういう利己的な理由もありながらも、
苦しみに共感しようとする度に
無自覚に自分と異なるものを排除もしくは無視しようとするもの
多数派になれば正義を振りかざせると思い込んで群れたがるもの
他人に自分との同質化を強いてくるものへの怒りが湧いてくる
無自覚である方が、より怒りが強くなる

プログラムも社会も、現在考え得る良い状態かどうか
疑い続けないとやがて機能しなくなるが、それは人も同じで
「自分の正しさ」への疑いを止めた状態が老いだと思う
どんな人生も「偶々そうなった」の積み重ねなのに
自分の偏見を常識と思い込み疑うことを止めた状態だ
それこそ18歳でも40歳でも疑わなくなったら老いている

正常/異常という言葉は心身の健康状態にしか使えないものであるように
常識/非常識という言葉も特定の条件内でのみ通用するものであり
個別の偏見に過ぎない相対的なものである以上
使い方を間違うと他人を傷付けるものだということに気付いてほしい

趣味や嗜好の話だったら住み分けでいいと思うが
偏見については無視して別々に生きる訳にはいかない
常識は(種類の少ない経験から作られた)偏見の集合に過ぎないという
アインシュタインの発言について、私は疑い得ない。
また広く共有して、そこから話し合いを始められたらと願う。
無意識にでも他人を傷付けることはよくないという私の常識も、偏見に過ぎないのか
彼らも他人を傷付けたくはないだろうし、
もし仲良くやっていきたいと思っているのであれば
偏見をすり合わせることもできるのではと思ってしまう

だがこれまでそれで不都合がなく、老いてしまった人たちに
絶対はないことを理解してもらうのは難しい
苦痛を感じている人たちがいることを知ってもらう為に
身近な人に話題を取り上げ自分の考えを話してみても
その話し合いは彼らが信じてきたことを否定しているのではなく
苦痛を与えたくてしている訳でもないということすら理解され難い
老いた人たちには変化すること自体が苦痛であるからだ
自分の(疑う)自由を守るために、
彼らの(疑わない)自由を制限しようとしていると
言われてしまったら、話し合いにもならない
傷付いた人たちは宙ぶらりんで、そのまま放置されてしまう

彼らが信じる根拠を強くしがちな媒体に
働きかけることができたら効果的かもしれないし
政府が利用するように、ニュースや有名人の「使い方」も
意識していくべきなのだろう
だが私には私はこう思うと言うくらいしかできない

つまらないと感じている時、自分が老いていないか疑う
何故つまらないかといえば、わかったつもりになっているからで
本当はそうではないかもという疑いをもつことで
また新鮮に情報が入力されていくようになる
自分の偏見を全体の常識と信じている人たちはつまらない
探りを入れた結果、本当にそうだった場合は
やはり苦痛を与えてでも変わらなければならないと思う
他人と違っているのは当然のことで怖いことではない
異質なものの苦痛さえ理解できれば、
新しい喜びも共有できるようになるし
何より人間に対する理解が深まれば
もうその人生は、つまらなくはなくなっている筈だ

表現は全て問いであるべきであり、
他人に自らの常識を疑わせるものが面白い
私は本当に、つくづく、無自覚な人が嫌いで
疑いを持たない人を信用できない
疑うことが大好きな偏った人間である


01. A Day a Gorilla Gives a Banana