よいかた

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酒で酔い方が違う
ビールやワインで少し浮ついても
その後はずっとお湯の中にいるようだ
焼酎や日本酒だと何か言いたくなるし
感情的になったりもする
ウォッカ泡盛ではぶち上って踊り出すので
単にアルコール度数の違いかもしれない

自分は今、37歳である
7歳の頃に比べて、一番なくなったと思うのは
一つの事を数日に渡ってやり続ける集中力である
そういう機会を遠ざけたというのもある
環境の変化に伴う体力の低下もある
情報の取り方が変わって、集中力が分散されてもいる
生きてく上で精神的に危ないものを取り除いたり
無駄に時間のかかることの代替に注力したり
思ってもすぐには言わず、悩む前にやってきた結果でもある
いずれ何もわからず、何も言わぬ物になるまでの時間を意識して
これでいいのかと思ったりもする

つい最近まで、
知久寿焼さんの歌を毎日のように聴いていた
セシウムと少女』という曲でも
生死や意思の有無も関係なく、地球上にある同じ物質として
放射性物質に「君」と語りかけるような知久さんが好きだ
知久さんは「たま」の頃に作った曲を、今でも歌い続けている
同じ歌をやり続けることが楽しいと、どこかで言っていた

自分が好きな作家にアルベルト・ジャコメッティがいる
昔、彼の作品を葉山で見て、具合が悪くなった事がある
「原爆の図」を観た時ですら、そんな風にならなかったのに
(これはまた違う強烈さの話ではあるが)
表現を生業とする者なら誰でも表現への執念はあると思うが
徹夜明けに強烈な執念の塊を食らった
吐き気を抑えてベンチで休み休み観た
矢内原伊作の本の中にも、
ジャコメッティの苦悩する姿が描かれていた
一方知久さんは、同じ事をやり続けながら
ジャコメッティのように辛そうには見えなくて、とてもよい
他者との関わり方の違いなんだろうか


歩く人

先日、都内で舞踏家のIchkawaさんと飲んだ
ここ数年は彼の公演の映像やチラシを作ったり
映像出しのオペをやったりしている
新婚の頃、弘前さくら祭りでチラシ用の写真を撮る時や
沖縄で酔っぱらって妻と喧嘩になったりした時の
きっかけになった人でもある
一年の半分以上を沖縄で過ごしていて
テレビの「月曜から夜ふかし」で
「闇を抱えて南の島に来ている人を調査した件」に出ていたが
彼に闇はなく、女性の格好が好きなおっさんである
Ichkawaさんの公演は極めて個人的で
彼にとってはとてもよかったりそうでもなかったりするが
お客さんにとっては微妙なものである

市川淳一はアル中である。仕事と舞踏の時以外は、大抵酒場で飲んでいる。時折飲みながら踊ることもある。アル中とはいえ、酒乱ではない。酔いながらいつも何か考えている風である。一年の半分くらいを波照間島などで過ごし、年に一度、8月の第一日曜日に舞踏公演を催す。今回が11回目である。 1995年に大野一雄に師事した後、天使館舞踏講座で笠井叡に舞踏を学んだ。その後、オイリュトミーシューレ天使館でオイリュトミーを学び、ベルセバッサ・オイリュトミー団で活動した。ソロ公演は2006年「噂の女」から「女の噂」「女の?顔」の3回のみで、あとは音楽家、ダンサー、飲み屋の店員など出演者が増えていった。 ピエール・モリニエハンス・ベルメールバルテュスといった画家を愛好する市川の舞台では、美しくエロチックな妄想の具現化が試みられている。市川が愛する共演者たちは、時に異形のものとなり、リアルな女となり、日常を挑発して魅せる。 2011年「号泣ダンス」以降は、踊りながら言葉を発するようになった。内容は諧謔的なものが多い。エロチックな非日常に、現実的な言葉が持ち込まれる。アナーキーな男が、言わずにいられなくなった言葉は時に可笑しく、切実だ。ちなみに先の公演では3時間弱踊り続けた後、熱中症で病院に運ばれた。そんなお年頃でもある。 市川淳一という人間の、混とんとした内面が、地獄となって立ち現われてくる。福生や国立の酒場にいけば、穏やかで人懐っこい彼には会える。しかしその内面世界が展開するのは年に一度、暑い盛りの、中野テルプシコールの密室の中だけなのである。

去年の公演に寄せて書いた文だ
ちなみに去年彼は骨折などして初の冬公演
今年は公演はなく、今は南の島にいる
来年は公演があるか謎だが構想はあるようだ

Ichkawaさんと飲みながら言われたのは
・『シャルロット すさび』という映画はどうなんだ
(薔薇絵さんは酔っぱらいながら荒れていたぞ)
・(照明の)宇野敦子さんのシャンソンは絶品だ
ベケットの『Not I』失くしたからまた送って
・「月曜から夜ふかし」に知り合いも写ってるから送って
マヤ・デレンの映画はよい
・牧瀬茜は美しいが忙し過ぎて出てくれるかわからない
などだった
こちらも構想に関係ありそうだったので
・山下陽光さんの「途中でやめる」は衣装にぴったりだ(センスは合わないかもだが)
・Akiko Nakayamaさんの映像表現は最高に合うではないか
・ジョン(犬)さんの表現はわかりやすいが
Ichkawaさんのはわかりにくいから何とかならないか
など話した。自己表現を目的にしたものは大概つまらない
Ichkawaさんは「わかりにくいよなあ。俺はわかるんだけどなあ」と
紹興酒を飲みながら言っていた
そりゃそうだろう

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4年前のIchkawaさん

正直に言ってIchkawaさんの周りには
とても魅力的な人が集まっていた
面白い絵画や音楽を紹介されるのも
とても刺激的だった
ちなみに去年の公演ではたまの『らんちう』で踊り
成田も竹馬に乗って参加したのだが
なんと知久さんも観に来た
でも何だか恥ずかしくて、挨拶もできなかった
なんとか恥ずかしくなく会う事はできないものかと思う
あ、歌を聴きにいけばよいのだな

マヤ・デレンの全作品集を取り寄せて観た
『午後の網目』『大陸にて』は面白かった
同じ頃、蟻鱒鳶ルの岡さんがアフタート-クに出ていた
七里圭の『眠り姫』がアップリンク吉祥寺
(吉祥寺パルコに出来た)でやっていて、
最終日に観に行った
内田百閒の不穏なテキストを
山本直樹が一部性別を変えて漫画にしたのを
映画にしたもので前々から噂は聞いていた
被写体としての人間が出てこない映画だ
七里圭の主観を物語に重ねる手法がよかった
www.youtube.com

これは自主映画だけど実験映画ではない
他人と共有できる物語に寄せられるか
それが結構大事なことなんだと思う
物語とは発見するもので
恣意的である程つまらない
他人に与えられるものでもない
個人的なものの取り扱いには
細心の注意が要る。
もし誰かに見せるのであれば

誰かが何かの方法で出力に集中している時
自分はつい力になりたくなる
協力している状態が楽だったのだろうか
もちろん自分が不幸でないという条件はある
でもそもそも知らない人であっても
誰かが幸せな時は嬉しいし、
誰かが明らかな不条理の下で苦しんでいるなら
何かしたいと思う
あ、表現の話であった
他人の表現に関わる自分は正直楽しかった
これは父を支え苦しめた母の血かもしれないが
その母は現在父を亡くし未だに苦しんでいて
おいおいとも思うので、とりあえず漢方薬を送ったりしている

表現への集中の話であった
歳をとるにつれて「今の自分の状態」「今の気分」
「気付いたこと・感じたこと」にフォーカスしたり
まとめたりする意識がどんどん弱くなっている
どうでもよいことになっている
これでいいのか

これでいいのだとも言える
自分をわかってほしい気持ちはなくなっていくし
他人に伝わる表現を心がけていても
無意識に自分というものがついてまわる
もし今までしてきた自己表現をやめたところで
生きていくことは全然できる

そもそも何かを途中で止めるのは正常なことだ
ゴールも自分で決めるものだし
自分で決めた目標を達成しても
自分を誇らしく思うこともない
勝手に生きているのが、正常だと思う

そういえば、最近は寒いので走っていない
手足が勝手に動くまま
いつものコースを走っていると
運転してる気分になってくる
自分の体が乗り物になって
意識がその上に乗ってる感じ
単純運動を続けたせいだ
どれくらい頑張ればどれくらいの速度になり
どれくらい疲れるのかもたかが知れてくるので
疲労への抵抗感も時間経過と同程度になる
スケボーに乗ってる感じが近いだろうか
スケボーには乗った事がないが
目標タイムもフォームも目的地もない
そういうものを意識すると疲れてしまう
前に進むことだけに集中しないと、
ランニングは疲れる

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3年前、がじゅまるを植えた部屋
表現の話だった
出力に集中しない生活に慣れると
無意識に流れている自分の気分は直視できないが
BGMを変える時などに知ることはできる
あとは他人の集中に触れた時にわかる
でもやっぱりこれでいいのかと思ったりもする
自分の捉え方への視点があれば
とりあえずはいいのかもしれないとも思う
意識の有無に関わらず出来ていく
今現在の自分の型を自覚できるという点で
役者をやるということは生きる上でとてもよいと思う
自分を相対化できるからだ
若いうちは混乱して酒に乱れることもあるが
バランスを取ることはできなくもない
かもしれない
酒に戻ってきた

ここでこのブログを上げるにあたって
昔の写真を眺めていたら
2015年の暮れから妻の写真ばかりだ
ああ、そうだと思った
一生恩返しをしていく所存でも
きっと最後まで返せはしないんだろう
どう伝えたらいいだろう
ありがとうございます
なんだかそんな感じで
休みの日は暮れていくのであった

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おうち
なにいってんのおとしゃん

人間は何の為に感動するのか
と問いを立てた事がある

その時想定した感動は怒りや悲しみや後悔などの類の
ネガティブな感情を刺激された状態以外のものである
人間に感動する機能が付いている理由が知りたかった

自分が最初に出した答は
「生きるのに飽きない為」だった
生き物が死なない為の機能なのである
でも目的があって付いた機能なのか
人間以外のものも感動するのか
生理的に気持ちいいのは何故なのか

それからまた歳をとって
誰かが今、100%本気でいる状態が伝わってきた時
またそのように自分が感じられた時に感動するので
「自分以外のものとつながる為」ではと思った
「自分以外のものを信じる為」と言ってもよい
もしそれが瞬間的であっても

人の計算が信じられないように
教科書に載るような歴史ですら
腹ではなかなか信じられないものである
知識や経験や想像力にも左右されるとは思うが
少なくとも信じられるのは、今感じられるものである

雨の日に屋根の下の勾配のある道を
溜まった水が流れていくのを
今地球上に生きているものに重ねて思う事がある
下った先が未来である
大本の同じ水がそれぞれ違うところへ向かっていく時
表面上のそれぞれの今にズームアップして
差異を気にするのはどうなんだろうと思ったりもする
注目されるものもあればされないものもあるし
差異はあるが、差異しかないのだし
でも流れる先端として生きているものには
今だけが信じられるものだから
やはり必死に生きていくしかないなあとか
ちなみに水が流れていく場所も
また別の変化していくものであり
時間を遡れば大本では全部つながっている

赤ちゃんのそもそも主観が全てという感覚は
生き物単体としては正しい気がするが
自分が知覚するように他人も知覚するという思い込みは
経験から否定されていくものである
共感は本来勝手に起こるものであり
受け手が勝手に伝わったと感じるし思うものだ
異なる主観が異なる経験を重ねて
交わったり別れたりしていくのだが
やはりつながっているという意識は
同じ生きているものに共感することは
なんだかとても必要なことのような気がする

「生きるのに飽きない為」も
「自分以外のものを信じる為」も
人間が死なない為の機能のような気がしている

思い出すこと

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自分らしさなんていうのは
何をしたかという行為の具体と
その時のそうであった気持ちの
積み重ねから掴めるようである

要は印象的な思い出を
できるだけ具体的に
映画のように思い出して
その時の気持ちを再生させることだ

これまでの色んな時の
自分の行為と気持ちを思い出していくと
積み重なるほどらしさが見えてくるようで
昔からの自分らしさは確かに
今の自分にもあるような気がしてくる

普段漠然と好きだと思っていること、
例えば選択基準だの優先順位だの
服装や生活習慣や時間の使い方や
そういったものを言葉に集約したものは
自分らしさではない
あくまで具体と気持ちなのである

思い出を確認することで
自分として生きてきたし
自分として生きてるんだと
自覚できるような気がするので
思い出すって重要だと思う

ちなみに動画を撮るのは記録にはなるが
思い出にはなりにくい

木を見る

言葉を無自覚に使ってしまい、誤解されることがある
(必死に生きる)という意味で「死ぬ気で生きる」と言ったり
(おいしいけど、もっとおいしくできた気がする)という趣旨で
「おいしいかもしらんけど」と言ってしまったり

前回のブログでは「他人に迷惑をかけない」ということを
まるで当然のことのように無自覚に書いてしまったが
自分は無意識では気にしていたのかもしれないと思った

なぜ気にするのか、考えてみると
「自分も好きなことを邪魔されたくないから」というのと
「自分で自分を恥ずかしがっているから」というのがある

例えば走ることだって「ひとり遊び」だ
健康や美容、身体能力の向上といった目的意識がない
ただ重心を前方に運び続けていく内に
体が勝手に動くのを観察して楽しむ遊びだ
カラカラになった口の奥から臭ってくるものとか
肺や心臓の形の変化や、皮膚が汗だくになることも
観察しては楽しんでいる

ほんとに誰の為にもならない
そうしてると楽しい自分の為だけの行いである
このことがちょっと恥ずかしいのだ
「なんだか、こんなんですみません」と
申し訳ないような気分にもなる

恥ずかしいくせに開き直っているのでブログなどに
「わからないけど気になったこと」を書いている
わかってないから、言葉がふわふわしている
「表現とは自分がわからない事や状態の表明から始まる
この世界をわかりたい気持ちの表出なのだ!」と
過程を見せる途中で自分を慰める恥ずかしさも
きっとどこかで楽しんでいることも恥ずかしい

だがやはり、無自覚でいることは悪だ
少なくとも自分が腹を立てる他人の振舞いも
無自覚からくるものあることは間違いない
だから自分も無自覚に言葉を使うのはいけない
少なくとも「ひとり遊び」とは
自分の体と意識に自覚的になることなので
他の事もしっかりしなきゃなと思う

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たぶんぶた
・「回文カルタ」かたるか かるたか
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ただのロー

最近、意味も無く走っている
ラソンなど走る予定は無い
特に体を鍛えたい訳でもないが
自宅仕事で運動不足なのは間違いなく
妻が家でプランクなどしてるのを見て
自分も何かやるかと始めたのも確かだ

最初は苦しさを味わっていたが
数日に渡り走る時間を設けると
筋肉の痛みや荒い呼吸にも
死ぬ訳じゃないと慣れていく
タイムを縮める必要もないので
疲れたり飽きたら歩いたりする
猫を見かけると狸を探したりもするし
緑があれば横になったりもする

そんな散歩のようなランニングでも
走るコースが決まり走る体になると
何も考えずに走れるようになる
確かに汗をかくのは気持ちがいいが
やっぱりそれは目的にはならず
勝手に手足が走る動きをしているのが
何だか面白くて続けている

鼻呼吸だけでゆっくり走ると
割とすぐに体が勝手に動き始める
自分の両腕両脚が自動的に動いて
必要な分だけ肺に呼吸を、心臓に血液を迫る
これを長時間続けたらきっと厳しい
でもいつでも止められるので気楽だ
そんな時の気持ちは、静かな諦観に近い
仕方ないなあ、という気持ちである

気分は全く高揚しないし幸福感もないが
自分はこういう、特に意味もないことを
ひとりでやってるのが好きなんだなと思う
妻もきっと、周りに迷惑かけなければ
いいんじゃないとか言うんじゃないかと思う

(追記)
「『周りに迷惑』かけたって良いよ、かけるわけないけど、かけたって別に良いよ」
「迷惑かけることを異常に気にする類の人間と思われたみたいで心外である」と言われた
ごめんなさい

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コタクちゃん

暗闇になった話

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子供の頃はオバケがこわかった
幽霊の話やお寺で見た地獄の絵
自分の知らない誰かが
「あるよ」と言っているものは
なんだか不安にさせるものとして
しっかりインプットされていたので
夜中にトイレに行くのは勇気が要った
木の階段をきしませないよう
慎重に降りていく時
暗闇に何か潜んでいるというのは
もはや確信であり見ないようにしていた

ある冬の夜に目が覚めた時
やはりおしっこがしたくなり
一階のトイレに向かった
冬におねしょをすると凍えるほど冷たい
どんなに楽しく気持ちの良い夢を見ても
叫びたくなるような寝起きになる
トイレのドアは玄関の真向かいだった
北国なので玄関は二重になっている
外側の玄関で雪を払って、内側の玄関に入る
夜は内側のドアも閉めて外は見えないのだが
その日は飲んで帰ってきた父が閉め忘れたのか
ガラス戸越しに外が見えた

オバケの恐怖心から鋭くなった皮膚と耳の感覚が
完全に外からの気配を感じていた
「ああ、なんかいる!」足と尿意が止まる
視界の右端には街燈の光が射す玄関が見える
想像の中ではこちらを見ているなんかの影が
外玄関と内玄関の間に伸びている
しばらく固まっていたが気配は止まない
「あーいるわこれ。もういいや」
ふわふわと雪が降っていた

除雪車が歩道に積み上げた雪の山
昼間にかいて作った庭の道の上に
また雪が降ってきているのだった
もさもさと視界を埋めるような雪だと
おもしろかったりこわかったりするが
その時降っていたのは間隔のまばらな雪だった
風はなくしんしんととめどなく
真っ黒な夜に落ち続ける雪を
そこここの街燈がぼんやりと照らしていた

しばらくその光景を眺めて
トイレでおしっこをした
トイレの明かりをつけたこと
水を流す音が出てしまうことが
申し訳ないような気分になって
トイレから出たあと、しばらくまた外を見た
雪が降る音は気配としてわかるんだと思い
玄関に切り取られて見えない外側に
降り積もる風景を想像した
自分が全然こわがってないことについて
階段をそっと昇りながら考え
自分も暗闇の一部になったからだと思った
幽霊やオバケと肩を並べてみると、
案外心安らぐ場所じゃないか
暗闇が親しくなって、こわくなくなった
地獄の問題はまた今度考えよう
ぐっすりと寝られた

翌朝起きるとおねしょをしていて
ちくしょう、なんでだよ!と思ったが
寒いのでさっさとパジャマを脱いで
布団を剥がし濡れているものを洗濯機に入れ
暖かいシャワーで股間を洗った
なんだかもう仕方ないのだと思った

わからなさ

よく聞く話だが、
生きていると「どうでもいい」が増えてくる
自分の経験で「どうにかなる」が増えるのと
自分の(体や好きだったものの)変化に伴い
変わらないものへの執着がなくなってくる

でもどうにかなったそのことも
どうにもならなかったかもしれないし
変化も抗うことをしなかった結果かもしれず
好きになった対象も自分の外側にあるもので
それらはたまたまそうなったのである

ただ生きていると、ただ変わっていく
やりたいこと、好きなことも続ける前にとりあえず
まずひとつ、ある形に固定してやるだけでも
ただ生きるから、一時離れる決意や意思が要る
その意識の中には、何か物語がある
(本を読んでいる時、身体の大半は止まっている)
一方で、そもそも自分がここにいることに理由はない
作った親、親に作らせたものに理由はない
ただ生きて変わっていくだけなら、物語は要らない
誰かと生きるには、物語が要る

人間には美しさと醜さがあり
下らなさと偉さがある
喜びと悲しみももちろん
リアクションとしてある
それぞれ物語は個別に持っているが
そろそろ大衆というものは
国という意識を捨てられないものかと思う
皆同じ地球という星に住んでいるらしいということは
さすがに受け入れてやってもいいんじゃないか

その星で生きている人間たちにとって
きっと一番の問題はその星で死んだ後も
人間たちが生きていけるかということで
現在晒されている問題の解決にあたっては
同じ星に生きる人間たちという物語が要る
国という物語はそろそろ要らない
金も権力も人間が作ったもので
人間出来不出来はあっても
みんな美しく醜く下らなくて偉いじゃんと
色々あったけどそれどころじゃねえから
そろそろ同じ人間同士いっちょ考えよう
みたいにならないものかと思う

まあ、なかなかならないのであるが
独裁とか戦争とかいう物語やフリは止められるし
途中で止めたところでなんてことない筈なのである
ただ生きていくこともできない人がいる状態は
人間としては絶対に解決しなければならない

「わからない」というのは、
主語と対象が何であっても常に検討すべき感想だ
それを諦めと取るか、そのまま受け入れるか
わかるために努力の余地があるものか
時間がなくてどうしようもないけど
後に生きる人のために残しておくべきものか

自分でもよくわからないものを
他人にわかる形に固定してやる
それは常に不完全な過去だが
だからできるだけ感じた今形にした方が
本当に感じたことや、わからないものの正体に近いこともある

だから表現者としては、役者がわからないものに近いと思っている
演技は生理と繋がっている表現(今を固定しようとしたもの)だからだ
生理と繋がらない表現などないが、それそのものを鑑賞の対象にしている点で
役者はただ生きていることに一番近く見える表現をしていると思う
楽家、舞踏家は技術に目がいきがちなので
それを意識しないようにするには経験の蓄積がいる
表現された瞬間を鑑賞者として目撃するには
普段目にする人たちと同じように観られる
役者が一番、今生きているということに近い
アニメはわからないものが排除されがちなので
今自分が生きているということからは遠い

自分の経験上、この生きているというよくわからないことを
そのまま受け入れてもらえて助かった
学校に通ってわかることが増えても
自分自身が他人にわかるものにならないと
社会は受け入れてくれないのかと思ってたら
ずっと図太く、ただ生きている先輩たちが
映画や演劇の世界にはいっぱいいた
映画学校で自分の脚本が面白がられたのも
わからなさにあったと思う
自分もそんな先輩になりたいと思う

とりあえず食事と排泄を一緒にしてみたいと思った人へ
別に止めないけど、答は「よくない」である

www.youtube.com